令和5年度 祠堂経(1)

抜けるような五月晴れのもと、大阪の義本師をお招きして祠堂経法要をお勤めしました!

祠堂経は、大誓寺におきましては毎年6月第三土日の恒例法要です。今年度は大阪浄行寺前住職、元布教使課程専任講師(※1)の義本先生にご布教を賜りました。

先生はその道では有名な方で、わざわざ氷見までお越しくださると聞き、他寺院の僧侶・門徒さままでお聴聞に足をお運びくださいました。聞きながら、涙ぐんだり、笑い声をあげたり、うなづく方も見られました。

ご法話では、「善人が集まると互いに衝突する」「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」「“そのままのすくい„は“このままのすくい„とは違う」などなど、含蓄に富んだ内容を多くのたとえを用いてやさしく・ありがたくお話しくださいました。

法要が終わり、梅雨晴れのように皆さま晴れ晴れとしたお顔で帰っていかれたのが印象的でした。またお招きしたいと思っておりますので、どなたさまもご参拝くださいませ。(つづく)


※ご法話の内容詳細については次回以降です。

※1、布教使育成にあたる先生です

<補足>今法座のご讃題(※2)
「しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、『正信念仏偈』を作りていはく、無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」


※2、布教冒頭に申し述べる法話の主題。お聖教(経典など)のお言葉を引用する。今回義本師は、親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証 行文類』偈前の文を述べた。

英語で聞法「念仏」3(後)

Although it is me that utters and hears the phrase “Namo Amida Butsu,” actually it is the call of my parent, Amida, promising to guide me to the Pure Land.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年3月』より

「念仏」3 (前) からのつづきです。「念仏」3ではお念仏がどう自己を発見することにつながり、阿弥陀如来が何とおよびであるか、という2つの問いをうかがっています。
前回は“阿弥陀„さまの親たるゆえんを、詠者の立場にたって掘り下げました。

それでは「つれてゆくぞ(promising to guide me to)」について。
どちらに?それは英訳文末に明記してあります「the Pure Land(極楽浄土)」です。

アミダさまがこの私を極楽浄土へつれて往く(生まれさせる)と仰る。
それはつまりアミダさまは私を、“いまだ浄土に生まれておらず„ かつ “浄土に生まれるべき者„ とご覧になっていることが窺えます。
この如来の智慧の眼を通してこそ、我が本来のすがたを目の当たりにすることができる。言い換えれば、仏法の鏡の前に立ってこそ(use the mirror of the Buddha Dharma to look at myself)、自分は本当の自分になることができるのです。

お念仏は私ではなく阿弥陀如来のおはからい(the Vow and the Practice of Amida Buddha)であったと聞かせていただけば、“自己の発見„ という私の身に起こる出来事は(私にとり二度目の誕生ともいえるくらい大変革ではあるけれど)決して大げさなものではなかったのです。

(「念仏」おわり)

次回以降について)
私の生き方、いのちのありようと深くかかわるのは「地獄・餓鬼・畜生・(修羅・人・天)」といわれる世界です。
いまだ往生を遂げていない私たちがかつて在りつづけ、かつ現在も在る世界だと。
どのような世界なのか。うかがって参りましょう。

英語で聞法「念仏」3(前)

Although it is me that utters and hears the phrase “Namo Amida Butsu,” actually it is the call of my parent, Amida, promising to guide me to the Pure Land.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年3月』より

前回は “念仏(The Nembutsu)„ について、
1、どう“自己を発見すること(discover yourself)„ につながるのか
2、アミダさまは何と喚びかけて(calling to)いるのか
との問いのうち問1について、 “南無阿弥陀仏{Namu(Namo) Amida Butsu}„ を聞かせていただくことが、本来の自己を発見することにつながる、という私の受け止め(味わい)を述べさせていただきました。

しかしなぜ、ただ私が念仏を称え、それを聞く(utter and hear the phrase “Namo Amida butsu„) ことが自己の発見という大げさとも言えるものにつながるのでしょうか。

そのヒントとなるのが今回の法語です(それが問2の答えともなっています)。
この法語によると、私が称え聞く念仏はそのまま「親のよびごえ」だといいます。
??「親」??なぜ急に家族が出てくるのでしょう。
どこに連れていかれるのでしょうか。

そこで注目すべきはその英訳です。
「親のよびごえ」の部分の英訳をご覧いただくとこの様になっています。
the call of my parent, Amida
親を表す“my parent„と並べて “Amida(阿弥陀)„ と記してあります。このうたの詠み手は、阿弥陀如来さまのことを“親„さまと仰がれているのです。親は、、、

 いのちに換えても子を護り、
 子に憎まれようと正道を歩むことを促し、
 子が転んで泣けば、同じだけ痛みを感じ、
 苦しみ悲しみに寄り添い、
 遊びに夢中になる子が求めるより、
 ずっと前から傍らにおり声をかけつづけ、
 生まれてきてくれただけで十分と慈しみ、
 ともに帰る事ができる喜びに満たされる。

「親」の一文字に万感の想いをこめて、如来のお慈悲を嘆じておられるのです。

{ (後) につづく }

英語で聞法「念仏」2

If I do not use the mirror of the Buddha Dharma to look at myself, I am unable to see who I really am.

真宗教団連合『法語カレンダー2023年4月』より

前回、“念仏„ について、
1、どう“自己を発見すること(discover yourself)„ につながるのか
2、アミダさまは何と喚びかけて(calling to)いるのか
と問いを投げかけて終わっていました。今回は問1を考えてみましょう。

今回の法語では仏法(Buddha Dharma) が鏡であり、その前で初めて自分は本当の自分と出会う(see who I really am)と筆者は味わわれています。鏡は光の反射によって鏡像を映すものですから、この場合、み仏の光に私という存在がそのまま照らされて、そのすがたを目の当たりにするということでしょう。それは仏さまが拯(すく)うべき存在として私をどう捉えておられるかに表れています。お仏法を聞くことを通じて、本当の私が知らされる。

ところで、私たち真宗門徒にとって仏法とは浄土真宗のみ教えであり、本願念仏(the Nembutsu caused by the Primal Vow fulfilled) 、つまり「南無阿弥陀仏」のお念仏に尽きます。

ですから “南無阿弥陀仏(Namu Amida Butsu)„ を聞かせていただくことが、本来の自己を発見することにつながる、と言えるでしょう。

(続く)

山の僧侶が法を説く⁉

5月、植え付け後一年のヤマボウシに花(苞葉)が咲きました。
昨冬の雪で根本近くから折れ、樹皮一枚で何とかつながっていたものが。。
皮一枚、針金と支柱で何とか起き上がっています(写真3枚目)。

もう立ち上がる事ができないほどの挫折や喪失を経ても、いのちは思いのほか力強く、
また、必ず何かに支えられている。
そして何より、いつも日光が照らしてくれています。

ちなみに、ヤマボウシは山法師と書き、
花弁に見える白い苞葉群を僧侶の白い頭巾に見立てているそうです。
ヤマボウシはその生き様で仏の法を説いてくれているようです。

英語で聞法 「念仏」1

The Nembutsu enables you to discover yourself.

真宗教団連合『法語カレンダー2020年10月』より

念仏は英語で「The Nembutsu」。。。
なんとそのままでした。

お念仏は私の口にとなえられるもの「口称(chanting)」 であり、耳に聞こえる阿弥陀如来のお喚び声「名号(the Name of Amida Buddha calling to the devotee)」です。

The Nembutsu」によって「念仏」が持つ醍醐味を損なうことなく表現しています。
しかしそれがどう“自己を発見すること(discover yourself)„ につながるのでしょうか⁉
そしてアミダさまは何と喚びかけて(calling to)いるのでしょうか⁉
(続く)

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