令和5年度 祠堂経(2)

抜けるような五月晴れのもと、大阪の義本師をお招きして祠堂経法要をお勤めしました!

令和5年度祠堂経

祠堂経(1)より続き

 ご法話では、含蓄に富んだ内容のお話を数多くいただきました。
 たとえば「善人が集まると互いに衝突する」「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」「“そのままのすくい„は“このままのすくい„とは違う」などなど。

 今回は「善人が集まると互いに衝突する」についてよく味わってみたいと思います。

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 この場合、「善人」は正義の人です。自らの正しさ、正当性のために互いに退くことができません。

 ことわざに、「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」があります。
 以下は『論語』によるその故事です。

葉(しょう)の領主が孔子に「私の村に躬(きゅう)というまっすぐな行いをする者があります。その父が羊を盗んだところ、子はこれを訴えたのです」と話した。孔子は「私の村のまっすぐな行いをする者は違っています。父は息子の罪を隠し、息子は父の罪を隠します。不正直のように見えますが、そういう見かけの不正直の中に、本当の正直がこもっているのです」と答えたという。

 いかがでしょうか。
皆さまはどちらが正しいと思われますか。この後、領主はすぐに納得したのでしょうか。

 上記のどちらを正しいと判断されたにせよ、自らの内にある正しさを絶対と受け止めてしまうと衝突が起きます。
 仏教では、そのような自他への苦しみをもたらす行為を“悪„とされています。
 そうしますと「善人」こそが悪人であるという皮肉が起きえます。

 「善人が集まると互いに衝突する」というご法話には、私の眼のくもりを拭いさる力があります。仏さまのみ智慧をとおして初めて、「善人」であるという私自身に対する疑いを持つことができます。

(つづく)

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