「地獄」7/7(前)編では阿修羅王の物語(The story of Joshin the asurendra)を例に、サブテーマ1を見てまいりました。(中)編はサブテーマ2および補足として“阿修羅王のその後(A sequel to the story of the asurendra)„についてです。
2、なぜ地獄までも仏の道
なぜ踏み外した道の先まで仏の道なのでしょうか。それは阿弥陀如来という仏さまが「生きとし生けるものすべてをすくう(※1)(save all sentient beings)」智慧(prajna)と大慈悲(the unobstructed compassion)を備えた仏さまだからです。別の表現をすれば、「限りなき光と命のほとけ(※2)(The buddha with measureless light and life)」さまだからです。 道を踏み外さずにはおれない存在(鬼、畜生、餓鬼、修羅)がおり、それらをすくうには、阿弥陀如来は誰ひとり取りこぼさない大慈悲を備えた仏である必要があり、またたとえ地獄であっても照らす光と、たとえ釈尊のような仏がおられない時代であったとしても存在しつづける寿命を持った仏でなければならなかったのです。
補足
■後日談‐浄心阿修羅王のすくい‐ (A sequel to the story of Joshin)
※1、本願 The Primal Vow(『仏説無量寿経 The Amitayus Sutra』阿弥陀仏の四十八願 Amida Buddha’s great forty-eight vows、特に第18願 The eighteenth vow)に誓われたすくいの目当てたる「十方衆生 All sentient living beings」に示されている。阿弥陀仏は本願に「それが完成しなければ仏にならない」という誓い The vows to be fulfilledを伴っているため、すでに十劫の昔に仏と成られていることから and he attained Buddhahood ten cosmic ages ago、「十方衆生」がすくわれることは決定している meaning that all sentient beings going to be saved、という結論となる。
※2、『仏説阿弥陀経 The Amitabha Sutra』に「彼仏光明無量 照十方国 無所障碍 是故号為阿弥陀 又舎利弗 彼仏寿命 及其人民 無料無辺 阿僧祇劫 故名阿弥陀(その仏の光明には限りがなく The buddha has amitabha the measureless light、すべての国々を照らして何ものにもさまたげられることがない。それで阿弥陀と申しあげるのである。また舎利弗よ、その仏の寿命とその国の人々の寿命もともに限りがなく The buddha has amitayus the measureless life、実にはかり知れないほど長い。それで阿弥陀と申しあげるのである So we call him Amida)」とある。
Ahh.., no matter where I am, it is because I am always embraced in Amida’s compassion.
真宗教団連合『法語カレンダー2021年8月』より
「地獄」最終回 前編
とうとう英語で聞法「地獄」シリーズ最終回の(前)編となります。 前回「地獄」6/7では私の有り様がそのまま“地獄„(Wherever I live, it’s Naraka)なのであり、私は道を踏み外さずにいられない(I took the wrong path)が、しかしそこもまた「仏の道」(realize that this, too, is Amida’s path)であった、とご紹介いたしました。 最終回は。。 1、なぜ私は道の踏み外し、自他を苦しめてしまう(地獄を生きてしまう)のか 2、なぜ道を踏み外した先(地獄)までもが仏の道であるのか 3、なぜ地獄を生きる私がすくわれる(成仏できる)のか これらサブテーマに沿って考えてみたいと思います。
1、なぜ地獄を生きてしまう
この問いはなぜ苦しみ(suffering)が有るのか、なぜ悪い行い(karma the action leads to suffering)をしてしまうのかと言い換えることができます。苦や苦しみを伴う悪行(道の踏み外し)はどこから来るか。。
それは私の愚かさ(※1)からやって来ます。愚かさ(ignorance, unseeing)とは「ものをとらえる心に縛られる(「地獄」3/7)」It is the intention to seize material that ties me down )ことです。
以下、憎悪(hatred, aversion)と果てなき闘争(everlasting war)の世界、阿修羅(界)(Asura the antideva)という苦しみがなぜ生まれたのかを通して見てみましょう。
—————————————————— ■浄心阿修羅王の物語 (The story of Joshin the asurendra)
お念仏によって気が付かされる「私」とは“鬼(地獄)„であり“餓鬼„であり“畜生„であった(The Nembutsu, chanting the name of Amida Buddha, makes me know myself as an Ogre, a Preta and also an Animal)
I took the wrong path but came to realize that this, too, is Amida’s path.
真宗教団連合『法語カレンダー2022年2月』より ことば:榎本栄一
踏み外す道とは What the wrong path means
さて、上のご法語の英訳を見ますと、「I took the wrong path(道をふみはずした)」とあります。 ふみはずした「道(path)」が何かはここでは定かではありませんが、一般に“人の道(humanity)„とか“正しい道(justice)„とか“普通の人が行く道(common sense)„としておけば大意は掴めるのではないでしょうか。(※1)
しかし、法語の作者はその道を「ふみはずしましたが」とまず仰います。そこに滲むのは不可(disapproving)、不正(unrighteous)、不善(bad)、非常識(absurd, stupid)、マイノリティ(minority)であるという想いであり、しかも「ふみはずすべきではありませんでしたが(I shouldn’t have taken wrong path but,,,)」ではなく「ふみはずしましたが(I took,,,)」と故意とも採れる表現を用いています。踏み外したのは飽くまで自分の所為であるし、また、結果的に悪くはなかったと観ておられるような印象です。
踏み外さずにはいられない私 Can’t keeping the right paths
“人道(humanity)„、“正しさ(justice)„、“普通„(common sense)といっても、無常無我の真理(※2)を仰ぐまでもなく、永久不滅の定義などありはしません。人、社会、時代が変わればこれら定義もまた変わるからです。したがってこの道に乗り続けられる人などおりません。「普通」の人の道から外れることが普通である(It’s common for anybody to get off the “common” course.)と私は捉えます。(※3)
いずれにしろ、作者だけでなく私もこれらの道を踏み外さずにはいられないのです。そしてそれこそが「私の有り様が鬼であり餓鬼畜生である」(I can’t keep taking the right paths leading to Buddhahood so that means myself as an ogre, a Preta and also an Animal)とつながるのです。
踏み外しようのない道 The path that I can never get off
しかし作者はそっと教えてくださいます。「気がつけばここも仏の道(but came to realize that this, too, is Amida’s path)」だったのだと。踏み外したはずが、そこは阿弥陀仏のおすくいの道であり、同時に私の成仏への道(the path leading to Buddhahood)でもあった。踏み外した先に道が用意されてあるならば、それこそ踏み外しようのない道が仏の道ではないでしょうか(※4)。
文字どおり、一所懸命ふみはずすまいと頑張っていたのが馬鹿らしくなるくらい、「普通」で「正しく」あることが見当違いなことであったと気付かされる、またそうした私たちの価値観を超えて大きく包み込む如来(Amida Buddha encompassing me far beyond human’s values)の大きさに圧倒される、、、そんなご法語に出遇いました。
(脚注) ※1、「一般に」と表現したが、作者の意図とは別である。狭義に仏教でいうならば、菩薩(a bodhisattva, who attains or is striving for Buddhahood)など仏を目指す者が善い行いを積み重ねながら歩む“成仏への道„、すなわち聖道(しょうどう the right paths)ととることができる。菩薩は自ら智慧の完成、すなわちさとりを求めるとともに、深い慈悲をもって一切衆生(生きとし生けるもの)をも利益(さとりに導く)しようとする存在。
※2、仏教の根本真理である三法印の二、諸行無常(The doctrine of impermanence for Sankhara, meaning formations)と諸法無我(The doctrine, absence of separate self for sarva-dharma, meaning things.)。諸行無常は因縁によって生まれたものは常に変化し留まることがないこと。諸法無我はあらゆるもの(因縁によるものもよらないものも)に永遠不変の実体は存在しないこと。
当寺におきましては2022年、このお初夜のお参りを「Shinran’s Night」と名を変え、より間口を広く、敷居を低く、どなたさまも楽しめるイベントを中心に構成しなおしました。より多くの皆さまにお寺を通じ、み教えや仏さまとのご縁が結ばれるように念じて。 Shinran’s NIght は、今年で4年目となります。
イベント冒頭にダニエルさんより「What kind of container do you know?(どんな種類の容器がある)」との問いかけを皮切りに、様々な容器をその用途(purpose)や素材(material)とともに紹介されました。ダニエルさんを囲み、小学生のお子さんたちを中心に英語と日本語が飛び交い、ワイワイガヤガヤと皆さん容器のあれこれに話がはずみました。