イベント中止のご報告-石川・富山豪雨をうけて-

被害を受けられた皆さまへお見舞い申し上げます

 去る8月27日朝にかけての記録的豪雨、それに続く大雨により富山県氷見、石川県羽咋、志賀、宝達志水、中能登に甚大な被害が出ております。27日朝には最大級の警戒を喚びかけるレベル5大雨特別警報が気象庁から発表されました。
 被害に遭われた皆さまからも「こんなん初めてや」「うちも水がついて近所のおうちに避難してます」「がけ崩れで土砂がすぐそこまで来た」と当時の恐怖と災害後のお困りの声があちこちから聞こえています。

8/30夏休みイベントの中止

 27日の豪雨により、イベントで講師を勤める予定だったダニエルさん宅にも浸水被害が出たそうです。また、当寺においてもがけ崩れが発生し、相当な被害が出ました(写真)。

 これらの事情により、8/30(日)に予定しておりました「夏休み大発見!」太鼓作りイベントを中止せざるを得ませんでした。楽しみにしておられた参加予定のお子さま12名とご家族さま、大変ご迷惑をおかけいたしました。

↓大誓寺境内のがけ崩れ

イベント参加の再募集について

 いまのところ未定ではありますが、必ずイベントを再開いたしたく考えております。ご講師のダニエルさんのお宅の復旧・業務の再開、また、当寺にお出でになる皆さまの安全と駐車場の確保等受け入れ準備ができましたら再度お声がけいたします!

(以上)

夏休みイベントのご案内

8/30(日)10:00 大誓寺にあつまれ!

 令和8年度の大誓寺夏休みイベントのご案内です。今回はHanabee英会話さんのイベントシリーズ「夏休み大発見!」に参加する形での開催です。

 対象は基本的に小学生のお子さま(未就学児は保護者同伴)で、ご門徒さまもそうでない方も、氷見にお住まいでもそうでない方も広くご参加いただけます。
 当日はHanabee英会話のダニエル先生から英語を交えて教わりながら、楽しく太鼓作りをします。まずはチラシの宛先にてお申込みください。
※8/10現在 定員に達しましたので、受付を締め切らせていただいています

会場は大誓寺本堂(空調あり)。お子さま定員10名(保護者を含めて20名程度)。

参加費はお一人500円です。当日ダニエル先生にお支払いください。

太鼓作りを教えてくれるのは元英語教師のダニエル先生。氷見市在住のアメリカ人のかたです。

Hanabee英会話 ダニエル先生紹介

 アメリカのカリフォルニア出身。2019年に日本に移住し、2024年まで七尾市の小学校で英語教師を勤める。現在は英語塾「Hanabee英会話」を運営・講師を勤めるかたわら養蜂を営みハチミツを販売している。夢は子どもたちに科学と自然への興味を育む「学童を作り、ミツバチたちの蜜の楽園を設け」ること、とのことです。

寺子屋大誓寺の第二のかたち

 私たちのお寺では令和3年より「寺子屋大誓寺(※)」という活動に取り組んでいます。「より開かれたお寺」は、学びを受ける側だけでなく、伝える側も流動するべきというのが当寺の考えです。
 これまで(令和7年現在)寺子屋の講師はお寺の住職などいわゆるお寺の人間が行ってきました(第一形態)が、前回令和7年の夏休みイベントより寺外部のかたが講師役となり開催しています(第二形態)。将来的には寺子屋活動の企画・運営にも携わっていただく(第三形態以降)ようになることが理想です。

 当寺の寺子屋活動へのご参画・ご協力、こころよりお待ちしています。

脚注)
※大誓寺が行う公益活動の一つ。お寺での学びと健やかな育成を通じて、よりどなたにも開かれたお寺を目指す非営利目的の活動。

参加型イベントのご紹介

 大誓寺では毎年恒例の参加型イベント(どなたでも参加可能)を開催しております。それでは以下、いくつかご紹介させていただきます。

除夜・お盆の鐘つき

 こちらは皆さまご存知の古来から伝わる伝統行事「除夜会」と「盂蘭盆会」の法要の一部です。大誓寺では除夜の鐘は大晦日の午後10時過ぎ~午前0時に、お盆の鐘は、朝8時からの法要後ひきつづき自由に撞いていただいております。
 撞いていく皆さまは一生懸命なにごとかを願われたり、一年の憂さを晴らすかのように高らかに大音声を響かせたりと人それぞれですが、撞き終えたお顔はどれも晴れ晴れとしていらっしゃいます。

夏休み!コラボレーション企画

 令和7年度より始めたこの企画。「HanaBee英会話」のダニエル先生と共に、「英語でクラフト」と銘打って夏休みにイベントを開催しております。(令和8年現在)
 令和7年度は藁かご作りをしました。英語で様々な容器の名前を確認したり、ダニエル先生とおしゃべりしながらかご作りを楽しみました。
 今年度も8月30日(日)に開催予定です。詳細は追って投稿させていただきますので、もうしばらくお待ちくださいませ。

しんらんずないと(親鸞聖人の夕べ)

 毎年10月第三(土)夜に行っているのは、浄土真宗の伝統行事「報恩講」から派生させて2022年から始めた「しんらんずないと(親鸞聖人の夕べ)」。
 親鸞聖人に灯火をお供えした後は、ロウソクを作ったり、折り紙で蓮を折ったり、幻想的なペットボトルキャンドルを手に静かな時を過ごしたり、クイズ・くじ引き・ビンゴゲームなどを勝ち進み景品をゲットしたりと、大好評のナイトイベントです。

 以上、一部ではありますが皆さま参加可能な楽しいイベントを中心にご紹介しました。
 今後もより楽しく、やさしく、そしてありがたくなるようなイベントを企画し、このお寺が地域の皆さまの交流や子供たちの学びの場となり、安心できる居場所となるよう取り組んで参ります。

令和8年度 祠堂経のご報告

6/20(土)、6/21(日)の両日、布教使の福山祐介さまならびに藤下晃厳さま両師をお招きし、祠堂経法要を行いました。

二日間行い、延べ50名のご聴聞者の皆さまがみ教えに耳を傾けました。

初日は福山祐介師のご法話

 福山師は富山市在住で、ご本山(西本願寺)や富山別院等でもご法話される布教使です。

 初日を担当していただき、阿弥陀如来の摂取不捨(すくい取って決して捨てないおはたらき)について、「抱きしめてくださる」「あなたのいのちは必要なもの」といったかみ砕いた表現で分かりやすくお話になりました。
 また、老いということも掘り下げ、その私を「断捨離(断じて捨てない離さない)」してくださるのがこの仏であることをユーモアも交えてお話くださいました。

 ご聴聞の皆さまは、時に笑い時にうなづきしながら熱心に耳を傾けておられました。

二日目、藤下晃厳師

 藤下師は福井在住で、浄土真宗の学びを深めるため、宗門の大学院や勤式指導所(作法・読経の教育機関)で学んだ学識経験豊かな布教使です。

 二日目の布教をご担当いただき、前半は人の孤独・孤立と虚しさ(空しさ)について現代社会の例をとってお話されました。後半は徐々に仏教用語も交え、「仏の功徳」「南無阿弥陀仏」の作用などの理解・味わいを述べ、虚しくこのいのちを終わらせない阿弥陀如来のおはたらきの有難さをご聴聞の皆さまと共有されました。

 ご聴聞の皆さまも食い入るように藤下師を見つめ、お話に夢中なご様子でした。ご自身らの内面をも見つめる表情が何とも輝いて見え、私自身良いご縁をいただけました。

 二日間を通して、私にとっても、お集りのご聴聞の皆さまとともにお念仏いただけ、温かい時間を過ごすことが出来ました。(終)

令和8年度 祠堂経のご案内

6/20(土)14:00~,6/21(日)9:00~の両日程で行います

行事内容と目安の時間

お勤め(読経):正信念仏偈 (30分)
法話(休憩入れての1時間半程度)
 布教使(初日):富山市 福山 祐介師
 布教使(二日目):福井 藤下 晃厳師

対象

どなたさまでもご参加いただけます

会場

大誓寺本堂(お好きな席にお座りください)

お布施(自由)

ご懇志をいただける方は本堂後方の受付までお越しください
(係のご門徒さまに対応いただいております)

祠堂経とは

 祠堂経は、大誓寺におきましては毎年6月第三土日の恒例法要です。
 かつては祠堂志(※1)をお納めいただいた方のお披露目をしたり、お寺によっては過去1年で亡くなった方の物故者法要を兼ねて修行されているようですが、当寺では現在、ともに布教使の方のお話を聞き、お仏法を聞くことができる慶びを再確認する場となっております。

 亡き方を想い、また同様に近しい方を亡くされた方々や、同じく仏とならせていただくお念仏の仲間(御同行)とともに笑い、涙し、掌を合わせましょう。
 どうぞどなたさまもご参拝くださいませ。(以上)

<注釈>
※1、永代にわたり祠や御堂を維持し礼拝の対象を護持し、後世へ伝えていくためのご懇志。かつては祠堂銭といったようです。

英語で聞法「地獄」7/7(後)

Ahh.., no matter where I am, it is because I am always embraced in Amida’s compassion.

真宗教団連合『法語カレンダー2021年8月』より

「地獄」シリーズ最終回では「地獄」6/7回と今回のご法語をうけて、以下3点のサブテーマを設けて考えております。
 1、なぜ私は道の踏み外し、自他を苦しめてしまう(地獄を生きてしまう)のか
 2、なぜ道を踏み外した先(地獄)までもが仏の道であるのか
 3、なぜ地獄を生きる私がすくわれる(成仏できる)のか

 「地獄」7/7(中)編ではサブテーマ2を見てまいりました。後編は最後のサブテーマ3についてです。

3、なぜ地獄の者がすくわれる

 まずは前掲のご法語をご覧ください。こちらは本願寺派の僧侶、山本仏骨氏のお言葉です。阿弥陀さまの存在や目的(本願)を知ったところで、それが自身のすくいへと繋がらねば、山本仏骨氏のように死を前にしてご法語のような言葉(※1)は出てまいりません。

 ここまで「地獄」シリーズを通して一貫して地獄は私に在ったのだし、鬼は私自身であったと知らされてきました。通常であれば受け入れられない真実を受け止めることができるのは、そのすくわれ難い仏とは真反対の私こそまさしく阿弥陀如来のすくいの対象であった(※2)からです。

 死への恐れ、苦しみもまた、もの(永続する自己)への執われの心から来ています。それを断ち切ることなど私にはできませんが、そこにこそ如来のお慈悲が向いているのです。

 ここに到って初めて仏骨氏のご法語が味わい深く広がります。。
まあ、どこにおってもお慈悲の中だからのう

(「地獄」7/7最終回 おわり)

次回以降の予定

 私がすくわれる(苦からの解放)唯一の方法が如来の本願力です。
 どうしようもなくものに執われる心に縛られ、欲が途切れることなく湧き出し、愛欲の憎悪に駆られる私がその苦から抜け出すには、自分の他からのお力(本願他力)による他ありません。縛られ身動き取れない私に自らの毒を抜くことなどできるはずもなく、そもそも私のどこを切っても毒しかないのです。

 煩悩という毒しかない私の毒を抜くとは?
 阿弥陀如来の本願力(他力本願)とはどのようなお力なのか
 次回以降、掘り下げてまいります。 


(脚注)
※1、真宗僧侶であった山本仏骨(1910-1991)が死の床にあって遺した一言。仏骨は小学生のころ、世界中で猛威を振るったスペイン風邪で家族すべてを亡くす。親類に預けられた仏骨は学校にも通えず子守をしながら働いた。終戦後、僧侶として滋賀の寺院で働き、その後大阪の寺院へ入寺する。行信教校講師としても働くも依然貧しく、一家六人が生きていくのもやっとだった。「食べる物には苦労しない」といわれた北海道への移住も考えたが、それでは日本仏教の中心地から離れることになってしまう。思案の末に出した結論は「宗乗(自らが信じる仏教教義)を勉強して死ぬんだったらそれでええわ」だった。
 ちなみにスペイン風邪(Spanish flu)とは1918-1920頃、全世界で大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称。全世界人口の3割、5億人が感染したとされる。日本においても2380万人あまりが感染し、約39万人が没している。

※2、悪人正機。自らの力で迷いを離れられない者(悪人)こそまさしき(正)めあて(機)の意。真宗教義の柱の一。言及した箇所として『歎異抄』第三条「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」が有名。

英語で聞法「地獄」7/7(中)

Ahh.., no matter where I am, it is because I am always embraced in Amida’s compassion.

真宗教団連合『法語カレンダー2021年8月』より

「地獄」最終回 中編

「地獄」シリーズ最終回では「地獄」6/7回と今回のご法語をうけて、以下3点のサブテーマを設けて考えております。
 1、なぜ私は道の踏み外し、自他を苦しめてしまう(地獄を生きてしまう)のか
 2、なぜ道を踏み外した先(地獄)までもが仏の道であるのか
 3、なぜ地獄を生きる私がすくわれる(成仏できる)のか

 「地獄」7/7(前)編では阿修羅王の物語(The story of Joshin the asurendra)を例に、サブテーマ1を見てまいりました。(中)編はサブテーマ2および補足として“阿修羅王のその後(A sequel to the story of the asurendra)„についてです。

2、なぜ地獄までも仏の道

 なぜ踏み外した道の先まで仏の道なのでしょうか。それは阿弥陀如来という仏さまが「生きとし生けるものすべてをすくう(※1)(save all sentient beings)」智慧(prajna)と大慈悲(the unobstructed compassion)を備えた仏さまだからです。別の表現をすれば、「限りなき光と命のほとけ(※2)(The buddha with measureless light and life)」さまだからです。
 道を踏み外さずにはおれない存在(鬼、畜生、餓鬼、修羅)がおり、それらをすくうには、阿弥陀如来は誰ひとり取りこぼさない大慈悲を備えた仏である必要があり、またたとえ地獄であっても照らす光と、たとえ釈尊のような仏がおられない時代であったとしても存在しつづける寿命を持った仏でなければならなかったのです。
 

補足

後日談‐浄心阿修羅王のすくい‐
(A sequel to the story of Joshin)

 前回お話した阿修羅王もまた道を踏み外しました。しかし踏み外した先もまた仏の道であるならば、憎悪に駆られ闘争に生きる阿修羅王もまた依然阿弥陀如来の光明に包まれていた、ということを意味します。

 もはや闘争こそが生きる目的と化してしまったような阿修羅が、自らを省み、その心の執われに気づき、自縄自縛から解き放たれることはあり得るのでしょうか

 ここで注目したいのは『仏説阿弥陀経』流通分(最後の部分)です。ここでは序分(冒頭)に加えて釈尊の説法を聞いた人々に言及されるのですが、何と阿修羅も聴衆の一人として説法の場にいたのです。

 舍利弗 及諸比丘 一切世間 天人阿修羅等 聞佛所說 歡喜信受 作禮而去

 阿弥陀経で釈尊は阿弥陀仏がどのようなみ仏でいらっしゃるか、また極楽とはどのような世界であるか、名号(南無阿弥陀仏) を聞き往生成仏することのいかに大切であるかを説かれます。

 仏を敬い、この説法を聞き信じて(信受)喜んだ(歓喜)者は、即時に迷いの因縁が断たれ、阿弥陀如来のすくい取って決して捨てぬ力によって往生成仏することが決定します。であるからには聞法した阿修羅王もまた仏と成ったはずです。。

 阿修羅王は阿弥陀如来のおすくいに遇い、終わりなき闘争の因縁を完全に断ち切られたのです

((「地獄」7/7(後)に続く)

(脚注)

※1、本願 The Primal Vow(『仏説無量寿経 The Amitayus Sutra』阿弥陀仏の四十八願 Amida Buddha’s great forty-eight vows、特に第18願 The eighteenth vow)に誓われたすくいの目当てたる「十方衆生 All sentient living beings」に示されている。阿弥陀仏は本願に「それが完成しなければ仏にならない」という誓い The vows to be fulfilledを伴っているため、すでに十劫の昔に仏と成られていることから and he attained Buddhahood ten cosmic ages ago、「十方衆生」がすくわれることは決定している meaning that all sentient beings going to be saved、という結論となる。

※2、『仏説阿弥陀経 The Amitabha Sutra』に「彼仏光明無量 照十方国 無所障碍 是故号為阿弥陀 又舎利弗 彼仏寿命 及其人民 無料無辺 阿僧祇劫 故名阿弥陀(その仏の光明には限りがなく The buddha has amitabha the measureless light、すべての国々を照らして何ものにもさまたげられることがない。それで阿弥陀と申しあげるのである。また舎利弗よ、その仏の寿命とその国の人々の寿命もともに限りがなく The buddha has amitayus the measureless life、実にはかり知れないほど長い。それで阿弥陀と申しあげるのである So we call him Amida)」とある。

英語で聞法「地獄」7/7(前)

Ahh.., no matter where I am, it is because I am always embraced in Amida’s compassion.

真宗教団連合『法語カレンダー2021年8月』より

「地獄」最終回 前編

 とうとう英語で聞法「地獄」シリーズ最終回の(前)編となります。
 前回「地獄」6/7では私の有り様がそのまま“地獄„(Wherever I live, it’s Naraka)なのであり、私は道を踏み外さずにいられない(I took the wrong path)が、しかしそこもまた「仏の道」(realize that this, too, is Amida’s path)であった、とご紹介いたしました。
 最終回は。。
 1、なぜ私は道の踏み外し、自他を苦しめてしまう(地獄を生きてしまう)のか
 2、なぜ道を踏み外した先(地獄)までもが仏の道であるのか
 3、なぜ地獄を生きる私がすくわれる(成仏できる)のか
これらサブテーマに沿って考えてみたいと思います。

1、なぜ地獄を生きてしまう

 この問いはなぜ苦しみ(suffering)が有るのか、なぜ悪い行い(karma the action leads to suffering)をしてしまうのかと言い換えることができます。苦や苦しみを伴う悪行(道の踏み外し)はどこから来るか。。

 それは私の愚かさ(※1)からやって来ます。愚かさ(ignorance, unseeing)とは「ものをとらえる心に縛られる(「地獄」3/7)」It is the intention to seize material that ties me down )ことです。

 以下、憎悪(hatred, aversion)と果てなき闘争(everlasting war)の世界、阿修羅(界)(Asura the antideva)という苦しみがなぜ生まれたのかを通して見てみましょう。

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■浄心阿修羅王の物語
(The story of Joshin the asurendra)

 ときは釈尊在世の昔よりさらに遡る。天界に、後に修羅界の王となる天(神)がいた。その天は正義を司り、忉利天の主である帝釈天(インドラ)に仕えていた。彼には娘がおり、名を舎脂(シャチ―)といった。彼は大事な娘であるシャチーを、天部(神々)の尊敬を集める帝釈天に嫁がせたいと思っていた。
 ある時、帝釈天の目に留まった一人の美しい娘がいた。それがシャチーだった。それ自体は父である天にも好もしいことだったが、帝釈天はあろうことかシャチーを無理に凌辱してしまった。これには父である天も激怒したが、もしここで帝釈天が反省し、娘を返したならば後の天部を巻き込む戦争
にまでは発展しなかったかもしれない。しかしそうはならなかった。なんと犯された当のシャチーが相手の帝釈天を愛してしまったのだった。
 我が娘はもはや帰ってはこない。父はその愛情ゆえに、また自らの正義を貫くために、収まることのない憎悪に駆られ、己が眷属を率いて修羅界を形成し帝釈天に弓引く。終わることのない戦いが始まる。闘争の神、浄心阿修羅王の誕生である。

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“愛„と“正しさ„という陥穽

 いかがでしょうか。阿修羅王は正義の神。しかしその正義の行動もものへの執われゆえに自らと他を傷つけ苦しめる悪行(道の踏み外し)となってしまっています。つまり娘との間の愛情が変わりなく在ると信じ、自分が依って立つ正義を確たるものと疑わないために、当人に怒りを収める理由がないのです。
 仮にその因果を理解したとしても、父の立場で娘を愛することを止めることなどできないでしょう。また自分の住む世界や自らが信じる正しさのために義憤を起こし行動することが悪いなどとどうしても思えないのではないでしょうか。
 この陥穽にいったい誰が気付くことができるでしょうか。

(「地獄」7/7(中)へ続く)

(脚注)
※1、三毒の一、愚痴。unseeing。ほかに貪欲(とんよく greed)と瞋恚(しんに hatred)がある。貪欲とは「あたりまえだと言うて、まだ不足を言うて(「地獄」4/7」)いるような欲しがる心であり、瞋恚はものをとらえる心に縛られた結果生じる失うことへ反発し怒る心のこと。

は(葉)のいろにほへと

イロハモミジ

学名:Acer palmatum Thunb
和名:イロハモミジ、イロハカエデ、タカオカエデ、コハモミジ

分類:ムクロジカエデ
分布:日本では福島県以南

花期:4、5月両性花(雌雄同株)。
果実:翼果(プロペラ状の羽)
葉:幅3~7cm で5~7裂する。不揃いの二重鋸歯があり、秋10~12月にかけて黄褐色から橙色、紅色へと紅葉したのち散る。

日本で最もよく見られるカエデ属の種でもみじの代表種。
画像のもみじは当寺境内に約5年前に植樹した若木である。

橙色の一叢(ひとむら)

 11月中旬。立冬を経て季節は冬に入ったころ、当寺中庭のもみじも燃えるような橙色に色づきました。同じ境内でも日当たりの良い場所のもみじは既に紅葉していたにもかかわらず、11月に入ってもこのもみじだけは緑色の葉をこんもりと付けていました。それが霜月も10日を過ぎてようやく。
 向寒の候、静謐な庭に一叢の温かみが目を惹きます。

紅葉の仕組み

 一般に紅葉する植物(※1)は、日当たり・寒暖差湿度によって紅葉の色と鮮やかさが変わってくるそうですが、どのような仕組みで紅葉するかご存じでしょうか。

 もみじは秋になって日照時間が減り気温が下がると、
①葉緑素が作られなくなり、元々持っていた黄色のカロテノイド色素だけが残る(黄葉)
②葉に溜め込まれた糖分と日光とが化学反応し赤色のアントシアニン色素が作られる
(紅葉)

 ということは、当寺の余りに黄味が勝ったイロハモミジは日照が足りていないのでしょうか。

 秋の紅葉は申すまでもなく、一年の間に視野をひろげてみても、新芽が生まれ、緑の葉が茂り、花を咲かせ、果実を結び、紅葉を通じて葉を落とす。なんと目まぐるしい変化でしょうか。
 古来、人々が花のいろや紅葉・落葉に世の無常を重ね、典籍や詩そして詠歌によって歎じてきたのも深く頷けます。

いろは歌

 “イロハモミジ”。。。その名の由来は「葉が5-7つに深く切れ込んでいるため、子供たちがその先端を『い、ろ、は、に、ほ、へ、と(※2)』と数えたから」とか、「『(山々を彩る)色は(といえば)もみじ』といったから」とか諸説あるようです。

 それにしても無常がぴったりのこのもみじに「いろは歌」を採用したのは、本当にただの子供たちだったのでしょうか。それほどに、もみじといろは歌との出会いには深い洞察と仏教的な素養の介在を感じずにはいられません。(終)

(脚注)
※1、 一方の紅葉しない葉は、葉緑素が抜けると葉に含まれるタンニン系の物質が残り、カロテノイドやアントシアニンがあったとしても比較的微量のため、褐葉(茶色い葉)となる。

※2、いろは歌とは、47文字の仮名を重複させずに作られた韻文。作者不明。制作時期は10世紀末から11世紀半ばとされる。後世、手習いの手本として流布した。
 全文と現代語訳は以下のとおり。
(全文)
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔ひもせず

(現代語訳)
匂いたつような色の花も散ってしまうものを、
この世で誰が不変でいられよう。
いま奥深い山のような無常の世を超越し、
儚い夢をみたり、酔いに耽ったりもすまい

英語で聞法「地獄」6/7

住めば地獄!? Wherever I get to live, it’s Naraka.

 前回までの8話「地獄」1/7(前)「地獄」5/7(後)で引用したご法語を通して至った結論は、、

お念仏によって気が付かされる「私」とは“鬼(地獄)„であり“餓鬼„であり“畜生„であった(The Nembutsu, chanting the name of Amida Buddha, makes me know myself as an Ogre, a Preta and also an Animal)

――ということです。

 私自身のこころに地獄も餓鬼も畜生もある。言い換えれば私の有り様が鬼であり餓鬼畜生である、と。であるならば、私の行くところ住むところどこであろうと、そこは地獄(餓鬼・畜生)でしかないということにならないでしょうか。

I took the wrong path but came to realize that this, too, is Amida’s path.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年2月』より ことば:榎本栄一

踏み外す道とは What the wrong path means

 さて、上のご法語の英訳を見ますと、「I took the wrong path(道をふみはずした)」とあります。
 ふみはずした「道(path)」が何かはここでは定かではありませんが、一般に“人の道(humanity)„とか“正しい道(justice)„とか“普通の人が行く道(common sense)„としておけば大意は掴めるのではないでしょうか。(※1)
 
 しかし、法語の作者はその道を「ふみはずしましたが」とまず仰います。そこに滲むのは不可(disapproving)、不正(unrighteous)、不善(bad)、非常識(absurd, stupid)、マイノリティ(minority)であるという想いであり、しかも「ふみはずすべきではありませんでしたが(I shouldn’t have taken wrong path but,,,)」ではなく「ふみはずしましたが(I took,,,)」と故意とも採れる表現を用いています。踏み外したのは飽くまで自分の所為であるし、また、結果的に悪くはなかったと観ておられるような印象です。

踏み外さずにはいられない私 Can’t keeping the right paths

 “人道(humanity)„、“正しさ(justice)„、“普通„(common sense)といっても、無常無我の真理(※2)を仰ぐまでもなく、永久不滅の定義などありはしません。人、社会、時代が変わればこれら定義もまた変わるからです。したがってこの道に乗り続けられる人などおりません。「普通」の人の道から外れることが普通である(It’s common for anybody to get off the “common” course.)と私は捉えます。(※3)

 いずれにしろ、作者だけでなく私もこれらの道を踏み外さずにはいられないのです。そしてそれこそが「私の有り様が鬼であり餓鬼畜生である」(I can’t keep taking the right paths leading to Buddhahood so that means myself as an ogre, a Preta and also an Animal)とつながるのです。

踏み外しようのない道 The path that I can never get off

 しかし作者はそっと教えてくださいます。「気がつけばここも仏の道(but came to realize that this, too, is Amida’s path)」だったのだと。踏み外したはずが、そこは阿弥陀仏のおすくいの道であり、同時に私の成仏への道(the path leading to Buddhahood)でもあった。踏み外した先に道が用意されてあるならば、それこそ踏み外しようのない道が仏の道ではないでしょうか(※4)。

 文字どおり、一所懸命ふみはずすまいと頑張っていたのが馬鹿らしくなるくらい、「普通」で「正しく」あることが見当違いなことであったと気付かされる、またそうした私たちの価値観を超えて大きく包み込む如来(Amida Buddha encompassing me far beyond human’s values)の大きさに圧倒される、、、そんなご法語に出遇いました。

 次の最終回「地獄」7/7では、なぜ阿弥陀如来さまは踏み外した先にすでに道をご用意しておいでだったのか、どうして踏み外してもすくわれるのか、ご法語とともに見てまいります。

(最終回「地獄」7/7へ)

(脚注)
※1、「一般に」と表現したが、作者の意図とは別である。狭義に仏教でいうならば、菩薩(a bodhisattva, who attains or is striving for Buddhahood)など仏を目指す者が善い行いを積み重ねながら歩む“成仏への道„、すなわち聖道(しょうどう the right paths)ととることができる。菩薩は自ら智慧の完成、すなわちさとりを求めるとともに、深い慈悲をもって一切衆生(生きとし生けるもの)をも利益(さとりに導く)しようとする存在。

※2、仏教の根本真理である三法印の二、諸行無常(The doctrine of impermanence for Sankhara, meaning formations)と諸法無我(The doctrine, absence of separate self for sarva-dharma, meaning things.)。諸行無常は因縁によって生まれたものは常に変化し留まることがないこと。諸法無我はあらゆるもの(因縁によるものもよらないものも)に永遠不変の実体は存在しないこと。

※3、聖道(※1参照)と見てもこの厳しい道は、菩薩ならぬ私、すなわち清らかな心を持ちえぬ私には一歩たりとも歩めない。

※4、仏教には自力聖道(難行)と他力浄土(易行)の二つの道があり、聖道は前掲のとおりだが、浄土の道とは阿弥陀如来のおすくいにあずかる道である。私自身の力である自力に対し、如来のお力なので他力という。我が力には自ずと限界があるが、如来のお力は測りえない。

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