前回「地獄」1/7(前)では、
「鏡をのぞくと、手を合わせた自分の額に鬼のツノ」。。。というところまでお話しました。
I am reminded of my unscrupulousness whenever I worship Amida with my hands together in gasshō.
真宗教団連合『法語カレンダー2022年9月』より
妙好人 浅原才市
まずは、こちらの肖像画をご覧ください。注目すべきはその額のツノです。
ちょっとびっくりしますが、実際にツノが生えていたわけではなかったようです。
この肖像画の人物は江戸時代末期の妙好人(※1)浅原才市という方です。才市は、肖像画を描いてもらった際に元々のツノなしの画を見て「こりゃ、わしじゃない」と言って描きなおしてもらったそうです。才市はなぜそんなにもツノにこだわったのでしょうか。
その想いの一端が伝わる才市の詩(※2)がのこっています。
じゃけん(※3)なり あさましなり 鬼なり
これが才市がこころなり
あさまし あさまし あさましや
また、こんな詩もあります。(一部抜粋)
じゃけん、京まん、あくさいち。
あさまし、あさまし、あくさいち。
ひとのものわ、なんぼでも、ほしい。
とうても、とうても、ほしい、ほしい、
ほしいのつのがはゑ、
あさまし、あさまし、あさまし、
じゃけんものとわ、このさいちがことよ
鬼のツノは才市にとって自身の心そのもの、つまり、あさましさ(unscrupulousness)・貪欲さ(greed)の象徴だったのです。才市はどこまでも真正面から自身の闇、鬼たる自己(my unscrupulousness)を見つめたのでした。
み仏の灯明と鏡
ただ、人は自身の罪深さや心の汚れを、自分ひとりで知り、直視することは不可能ではないでしょうか。ちょうど灯りと鏡なしでは自分自身のすがたを見られないように。
才市は聞法を重ねるうちに、「ねんぶつの、ほおから、わしのこころにあた」り、「阿弥陀佛そのものを体験した」ようです。難しい言葉でいうと、尽十方無礙光(※4)(Amida’s infinite light and unobstructed compassion)という如来の智慧の灯明と、浄土への喚び覚まし(called and reminded by Amida Buddha)という慈悲の鏡に出遇われたと言えるでしょう。
悪にかたまる わたくしが 悪をも見ずに 法(※5)をよろこぶ
親のおかげで 機(※5)をとられ ご恩うれしや なむあみだぶつ
わたしゃしやわせ よい耳もろた
ごんとなったる鐘の音 親のきたれのごさいそく
浄土へやろをの 親のさいそく
自分の鬼のツノは目を背けたくなるものです。しかしその姿を如来の智慧によって知らされるということは、同時にその私を必ず往生成仏させずに済まさない如来さまのおすくいの中にもう既にある、ということ。
ツノのある私のためにこそ、阿弥陀さまはいらっしゃったのでした。
<脚注>
※1、妙好人・・・Myokonin the devotee who lives a life of total dedication to Amida. 念仏者。特に浄土真宗の篤信者。“妙好華(白い蓮の華)の如き人„の意。
※2、才市の詩・・・ノート100冊分にも上るといわれる。披露のためというより、自然と湧き出した内なる法味(仏法の味わい)を書き留めずにいられなかったようである。
※3、じゃけん・・・Incorrect views in Buddhism. 邪見。邪慳。仏の教えに背く考え。正信偈に「弥陀仏の本願念仏は、邪見・憍慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもって難し」とある。
※4、尽十方無礙光・・・Amida’s infinite light and unobstructed compassion. 十方世界(あらゆる世界)を照らし尽くし衆生をすくう阿弥陀仏の無礙(何の妨げもない)の光明。ゆえに何時でも何処でも、どれほどの悪鬼たる私でも、阿弥陀仏のすくいの真っただ中である。
※5、法と機・・・Amida Buddha and sentient beings to be enlightened. 「法」は仏の教えまたは弥陀仏の本願力、「機」は仏の救いの対象または衆生の信心。才市は「法」を阿弥陀仏そのもの、「機」をあさましい自身そのもの、と観ているようである。