よろこびまもりたまふなり

画像は震災後に、ご門徒さまからお引き取りした菩薩さま。つながっているように見えるが、首は胴から離れ、胸に大穴が空いてしまっている。

身代わりに⁉

 この度の震災(R6.1.1 能登地震)において、ご門徒さま宅のお仏壇にも被害が出ています。
 先日あるご門徒さま宅に震災後はじめてお伺いしたところ、不思議そうなご様子でお仏像を持って来られて仰るには、

「おかげさまで家族もみんな無事でしたが、、、。これって身代わりになってくださったんでしょうか」
と、その掌には菩薩さまの銅像が抱えられていました。

 私には正直なところ分からず何ともお答えすることが出来ませんでしたが、互いに無事でいられたことを喜び、ともにお念仏申し上げたのでした。

浄土真宗の現世利益

 親鸞聖人は現世利益(この世で受けられる利益)をお示しになりましたが、それは己の欲望(息災延命・家内安全・合格・安産・商売繁昌等)充足とはどうやら違うようなのです。
 聖人の仰せになる利益とは、たとえ苦しみの中に在っても充実し、感謝し、喜び、希望をもって生きていけることを如来さまに恵まれることをいいます。

たとえ苦しみのなかにあっても

 ですから、被災したこと自体は苦しみに違いありませんが、み仏に護られているという感謝の心で前向きに歩めること、これこそがこのたび菩薩さまから頂いたご利益でありましょう。

能登半島地震をうけて

心よりお見舞い申し上げます

 この度の能登半島地震において被害を受けられました皆さまには、
心よりお見舞い申し上げます。また、依然避難を余儀なくされておられる方々には、
できる限り早く日常を取り戻されますようお念じ申し上げます。

 当寺においても多少の被害は出ましたが、人的被害はなく、
インフラ・家屋の構造物ともに深刻なダメージはありませんでした。

 しかしながら、特に氷見市北部、能登地方では大変な被害が出ており(下画像)、
能登においては水道・電気・通信・道路等のインフラも未復旧であり、
いまだ避難されておられる方は1万5千人を超えます(令和6年1/20現在)。

ともに、、、

 上の画像は先日筆者が氷見市北部・中能登町をお見舞いにうかがった際に通りかかり、
目についた被害のごく一部です。
。。。現場に立つと、言葉もなく呆然と立ちつくす他ありません。

 当寺にも被害は出ており、将来は決して安泰ではございません。しかし、現にいま大変な困難の中にある方々がいるなら何かせずにはおられません。ともにいようと思わずにおれません。それが阿弥陀さまのなさるだろうことでしょうし、如来のお慈悲のもとにある私、僧侶のすべきことです。

 危機の際には南無阿弥陀仏の南の字も出てこない私ですが、そのような私だからこそ、ともにお出でになる阿弥陀如来さま。どなたさまも決して独りきりではございません。(以上)

令和5年度 祠堂経(3)

6月に行った祠堂経法要でのご法話を振り返り、味わいます

祠堂経(2)より続き

 ご法話では、含蓄に富んだ内容のお話を数多くいただきました。
 たとえば「善人が集まると互いに衝突する」「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」「“そのままのすくい„は“このままのすくい„とは違う」などなど。

 今回は「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」についてよく味わってみたいと思います。

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 生活のなかで、ときに「親戚に不幸があって。。」という言葉を聞いたりしませんか。これは親戚のどなたかが亡くなったことを言うときの決まり文句ですが、義本師のお言葉は、亡くなる人は本当に不幸なのかを考えさせられるご提起です。

 “不幸„と思っているのは誰でしょう。この世に遺される私にとっては不幸です。「もっと生きとってほしい」「あと10年(20年、30年)は。。」と。
 しかし亡くなっていく当人にとってはどうでしょうか。勿論、「もっと生きとりたい」「まだまだ死ねんがに、なんで。。⁉」という想いのなかには不幸(苦悩)しかありません。そのまま亡くなっていったとしたら、故人の人生のゴールは不幸だったということになってしまいます。
 それにしても、、、

 いったい誰が不幸のまま人生を終えたいでしょうか?

 死という不幸を、不幸のまま終わらせない力用(はたらき)が、阿弥陀如来のおはたらき、その智慧と慈悲が顕現した、“南無阿弥陀仏„の名号(お念仏)です。

 お釈迦さまは、いのちについて「流転生死海(るてんしょうじかい)」、つまり、この世を含めた苦しみ・まよい(“生死„)の世界を“海„にたとえ、またその海を生まれ変わり死に変わりしながらも、流され巡り続ける(“流転„)と教えて下さいました。
 となれば、私の死は、巡るいのちの通過点に過ぎません。ただ、その通過点の前も後も不幸であり続けるのか、それともそこから抜け出すのか。

 この生死流転という不幸からの離脱こそが往生成仏(すくい)であり、「必ずすくう(往生成仏させる)この阿弥陀にまかせよ」という阿弥陀仏のお喚び声が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。聞くもの(念仏申す者)は皆ともに浄土に往生させていただけます。

まとめると、
・死とは、“一巻の終わり„ではない
・死(人生のゴール)が不幸で終わるかどうかは如来のおすくいに出遇っているかどうかで決まる。
・なぜなら、おすくいによって、不幸で終わるはずのいのちが、皆一緒になって仏になるいのちへと変えられるからである。

          ◇

 もしかすると“不幸にも„亡くなっていった方は、次のように思われていたかもしれません。

「不幸じゃない。この世界で出遇えたから。
。。。あなたに」「。。。我が子に」「。。。父と母に」
「そして、南無阿弥陀仏に」


「だから、また必ず会えるよ、会おうね」と。
(以上)

Shinran’s Night 2023(親鸞聖人のゆうべ)報告

10/21(土)の夜、Shinran’s Night を開催しました。

 今年度のShinran’s Night も雨天にもかかわらず、よちよち歩きのお子さんからじぃじ・ばぁば世代の方まで幅広く多くの皆さまにご参加いただきました。ありがとうございました。

 雨天のため、参道に集まっての勤行・献灯は中止とし、御堂内でのお勤めとなりました。それでも色とりどりのペットボトルキャンドルがお供えされると、御堂は厳かな中にも華やかな雰囲気に包まれました。

 今回のメインイベントはハスの立体おりがみアートでした。
 皆さん少してこずりながらも集中して作業され、作業時間の一時間があっという間に過ぎてしまいました。皆さんが一所懸命に作ってくださったおかげで、かの極楽浄土の池に咲くといわれる色とりどりの蓮の華を想わせるハスの壁アートが完成しました!
壁アートは御堂内の北東側壁に展示してありますので、どなた様もぜひご覧にお出でください)

 イベント最後のくじ引きでは歓声とため息が入り交じり、この日一番の盛り上がりを見せました。くじ番号は蓮アートで各人が蓮おりがみを貼り付けた位置に対応しており、当選番号は機械によるランダム抽選ですから、自他の運が試されました。最後までどう転ぶか判らない展開に、子供たちは身を乗り出し、大人は笑顔があふれました。
 豪華賞品の当たった方はおめでとうございました。外した皆さまも次回きっと機会がまわってきますので、ぜひまたのご参加をおまちしております。

 次も老若男女だれもが楽しめるイベントを企画する予定です。これがひいては仏縁をいただく機会となりますことを期してご報告とさせていただきます。

Shinran’s Night 2023(親鸞聖人のゆうべ)案内

10/21(土)の報恩講おしょや(初夜勤行)は、お楽しみ満載

 今年度も去年に引き続き、Shinran’s Night(※) を開催いたします!

 去年のShinran’s Night 2022はご門徒さまに限らずご夫婦にお子さん、おじいちゃんおばあちゃんにお孫さん、中学生は友人同士で、兄弟姉妹でと、たくさんのご参加をいただきました。
 ご本尊と親鸞聖人へのお参りに始まり、お楽しみ会に移るとご参拝の皆さま、特に子供たちの歓声が御堂中に響き渡り、まさによろこびの場となりました。

今年度のおしょやもお楽しみ満載です。

 闇を照らす幻想的なキャンドル、あっと驚くハスの折り紙アート、まず一般の方は着ない法衣の試着体験、そして豪華賞品があたるくじ引きまで盛りだくさんなイベントを用意しております。

 参加は無料!どなたさまも参加、お待ちしております。

(※)Shinran’s Night とは

 世に生きるすべてのいのちをすくうとの阿弥陀如来の仰せ、本願念仏。そのナモアミダブツのお念仏との出遭いをよろこばれ、今に伝えてくださった親鸞聖人。Shinran’s Night(しんらんず ないと)とは親鸞聖人とともに仏縁をよろこび、そのご苦労に想いをはせる夕べの集いです。

天が降らせた供養の花

晩夏のはな、ナツズイセン

学名:Lycoris squamigera Maxim.
和名:ナツズイセン(夏水仙)
属名:ヒガンバナ属
原産国:中国
分布:日本(本州・四国・九州)
花期:八月
彼岸花の近縁種。花期になると地面から花茎をまっすぐ伸ばし、薄桃色の花を咲かせる。花茎の長さは60cm前後で4~6個の6裂したラッパ状の花がつく。人里近い山野やあぜ道に自生している。なお、英語名リコリス(Licorice)は全くの別種(マメ科カンゾウ属)。
 

 お盆の後、夏の終わりを感じさせる境内の風物詩の一つがこちら、ナツズイセンです。春、葉が茂る時期に花は咲かず、晩夏の花期には葉は枯れているため「葉見ず花見ず」とも呼ばれています。

 また、彼岸花(曼殊沙華:まんじゅしゃげ)の近縁種であり、花の形や先ほどの「葉見ず…」の特徴もそっくりの仲間です。曼殊沙華は『法華経』の巻第一序品によると、お釈迦さまが大乗(自他ともに成仏できる大きな乗り物)の経を説かれた時、天が降らせて供養したとされる四華の一つです。中国に仏教が伝わった際に存在した花に、当時の人々が比定したものとされます。

 ところで皆さんご存じでしたか。

 ヒガンバナ属全ての品種でリコリン(天然の有機化合物:アルカロイドの一種)という毒を持つことを。しかも多量に摂ると人をも死に至らしめる毒です。しかし数日間流水にさらすことで地下で生長した鱗茎(ゆり根の様なもの)は良質な食糧となります。ヒガンバナ属が人里近くに群生しているのは、江戸時代以前、飢饉の際の救荒作物としての役割があったからだそうです。

 毒であったものが転じて人々の助けとなる。お釈迦さまが説かれた大乗のみ教えは、阿弥陀如来のすくいのおはたらき(本願他力)によって、私の煩悩(欲・怒り・愚かさの三毒)を転じて仏のさとりへと至らしめ、他の一切をすくいとる仏となるというみ教えです。


 天が降らせるという曼殊沙華。

 目の前にあるナツズイセンこそがその華なのかも。(以上)

令和5年度 祠堂経(2)

抜けるような五月晴れのもと、大阪の義本師をお招きして祠堂経法要をお勤めしました!

令和5年度祠堂経

祠堂経(1)より続き

 ご法話では、含蓄に富んだ内容のお話を数多くいただきました。
 たとえば「善人が集まると互いに衝突する」「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」「“そのままのすくい„は“このままのすくい„とは違う」などなど。

 今回は「善人が集まると互いに衝突する」についてよく味わってみたいと思います。

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 この場合、「善人」は正義の人です。自らの正しさ、正当性のために互いに退くことができません。

 ことわざに、「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」があります。
 以下は『論語』によるその故事です。

葉(しょう)の領主が孔子に「私の村に躬(きゅう)というまっすぐな行いをする者があります。その父が羊を盗んだところ、子はこれを訴えたのです」と話した。孔子は「私の村のまっすぐな行いをする者は違っています。父は息子の罪を隠し、息子は父の罪を隠します。不正直のように見えますが、そういう見かけの不正直の中に、本当の正直がこもっているのです」と答えたという。

 いかがでしょうか。
皆さまはどちらが正しいと思われますか。この後、領主はすぐに納得したのでしょうか。

 上記のどちらを正しいと判断されたにせよ、自らの内にある正しさを絶対と受け止めてしまうと衝突が起きます。
 仏教では、そのような自他への苦しみをもたらす行為を“悪„とされています。
 そうしますと「善人」こそが悪人であるという皮肉が起きえます。

 「善人が集まると互いに衝突する」というご法話には、私の眼のくもりを拭いさる力があります。仏さまのみ智慧をとおして初めて、「善人」であるという私自身に対する疑いを持つことができます。

(つづく)

イオンは慈雨とともに

境内のアジサイが見頃です

境内にはアジサイが多く植わっていますが、
がくが大きく丸く発達したホンアジサイは石段の一角にのみあります。

大誓寺のホンアジサイは毎年必ず青色の花を咲かせます。
みなさま、不思議に思われませんか?
同じ在所であってもあちらは赤、こちらは青、赤青混こうというお宅もあります。

調べてみますと、
「土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合し青色を呈する『Wikipedia』」
とのことです。。??

ちょっと分かりづらいので、身近なお仏法で言い換えてみます。

「土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し」
訳:釈尊が世に現れて下さりその大智大悲をもって真実の法を説かれた。それは濁世の人心に慈雨のごとく染みわたった

「アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合し」
訳:法にしたがい、まことの心と正しい行ないの実践をお勧めになり、疑いなく聞き受けた者はその身に功徳が満ちみちて

「青色を呈する」
訳:やがてさとりの華がひらくのである

。。ちょっとムリがありました。。

アジサイは放っておけば赤になる。イオンを受け取れば青になる。
私は放っておけば地獄の鬼に、、如来さまのお心を受け取ればすくいの仏に。


お釈迦さまがお説きになった真実の法が慈雨のように私の身に染み入り、大悲のお心を届けてくださいます。

令和5年度 祠堂経(1)

抜けるような五月晴れのもと、大阪の義本師をお招きして祠堂経法要をお勤めしました!

祠堂経は、大誓寺におきましては毎年6月第三土日の恒例法要です。今年度は大阪浄行寺前住職、元布教使課程専任講師(※1)の義本先生にご布教を賜りました。

先生はその道では有名な方で、わざわざ氷見までお越しくださると聞き、他寺院の僧侶・門徒さままでお聴聞に足をお運びくださいました。聞きながら、涙ぐんだり、笑い声をあげたり、うなづく方も見られました。

ご法話では、「善人が集まると互いに衝突する」「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」「“そのままのすくい„は“このままのすくい„とは違う」などなど、含蓄に富んだ内容を多くのたとえを用いてやさしく・ありがたくお話しくださいました。

法要が終わり、梅雨晴れのように皆さま晴れ晴れとしたお顔で帰っていかれたのが印象的でした。またお招きしたいと思っておりますので、どなたさまもご参拝くださいませ。(つづく)


※ご法話の内容詳細については次回以降です。

※1、布教使育成にあたる先生です

<補足>今法座のご讃題(※2)
「しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、『正信念仏偈』を作りていはく、無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」


※2、布教冒頭に申し述べる法話の主題。お聖教(経典など)のお言葉を引用する。今回義本師は、親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証 行文類』偈前の文を述べた。

英語で聞法「念仏」3(後)

Although it is me that utters and hears the phrase “Namo Amida Butsu,” actually it is the call of my parent, Amida, promising to guide me to the Pure Land.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年3月』より

「念仏」3 (前) からのつづきです。「念仏」3ではお念仏がどう自己を発見することにつながり、阿弥陀如来が何とおよびであるか、という2つの問いをうかがっています。
前回は“阿弥陀„さまの親たるゆえんを、詠者の立場にたって掘り下げました。

それでは「つれてゆくぞ(promising to guide me to)」について。
どちらに?それは英訳文末に明記してあります「the Pure Land(極楽浄土)」です。

アミダさまがこの私を極楽浄土へつれて往く(生まれさせる)と仰る。
それはつまりアミダさまは私を、“いまだ浄土に生まれておらず„ かつ “浄土に生まれるべき者„ とご覧になっていることが窺えます。
この如来の智慧の眼を通してこそ、我が本来のすがたを目の当たりにすることができる。言い換えれば、仏法の鏡の前に立ってこそ(use the mirror of the Buddha Dharma to look at myself)、自分は本当の自分になることができるのです。

お念仏は私ではなく阿弥陀如来のおはからい(the Vow and the Practice of Amida Buddha)であったと聞かせていただけば、“自己の発見„ という私の身に起こる出来事は(私にとり二度目の誕生ともいえるくらい大変革ではあるけれど)決して大げさなものではなかったのです。

(「念仏」おわり)

次回以降について)
私の生き方、いのちのありようと深くかかわるのは「地獄・餓鬼・畜生・(修羅・人・天)」といわれる世界です。
いまだ往生を遂げていない私たちがかつて在りつづけ、かつ現在も在る世界だと。
どのような世界なのか。うかがって参りましょう。

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