英語で聞法「地獄」3/7

 前回「地獄」2/7では地獄はどこに?をテーマにお話ししました。
 今回はこの世における地獄(Naraka manifesting itself as a result of one’s bad deeds in the mundane world)のひとつのすがたをご紹介します。

Material wealth does not tie me down. Rather, it is the intention to seize material wealth that does.

真宗教団連合『法語カレンダー2015年6月』より

黒縄地獄(Marking String Naraka)

 浄土真宗七高僧のお一人、源信和尚(942-1017)の著作『往生要集』によれば、八大地獄のなかに「黒縄(こくじょう)地獄」というものが存在します。

図:黒縄地獄
図上部の獄卒らは罪人に黒縄でもって線を引こうとしている。下部では引かれた線に沿って罪人を切り分けている。

 「黒縄」とは墨縄(marking string)のことで、大工さんが材木に直線を引くための道具です。黒縄地獄において、まず罪人(a tormented sinner)は地獄の獄卒である鬼(Oni, an ogre the warden of Naraka)に熱鉄の地に伏せられ、熱鉄の黒縄でもって身体の縦横に線を引かれる。そして刀、斧あるいはのこぎりでもって縄目に従って切り割き分けられる。切り分けられた罪人らの肉体は段をなしてそこここに散り置かれる。。。なんとも気分の悪くなる光景です。

黒縄の正体

 地獄の鬼がその怪力でもってこの身をねじ伏せ、打ち付けてくる苦痛極まりない熱鉄の黒縄。一体なぜこんなにも熱いのか、なぜこんなにも苦痛なのか、そしてなぜ黒いのか
 親鸞聖人の著『教行信証』に涅槃経を引用されて仰せのことには、

「黒業あることなければ、黒業の報なし。白業あることなければ、白業の報なし。」

 黒は悪、不浄を表します。したがって黒業とは悪業(悪い行い。bad deeds)のこと。悪業がなかったなら苦しみという悪果を引き起こすこともない、という意味でしょう。ちなみに白はその逆です。
 つまり、黒縄が黒いのは己の引き起こした悪行ゆえだったのです。その我が行いが苦痛の縄となり自らに向けられるのです。

自縄自縛

 ここで今一度冒頭のご法語をご覧ください。

 「もの」の英訳を見てみると「material wealth」とあります。つまり物質的な富です。言い換えれば財産です。しかし、問題は物や金銭だけではありません。人も、為すことも含め、私の欲しがる対象のすべてです。
 それら「もの」が私を縛るのではない、とご法語で示されます。

 そうです、私を縛る黒縄は「もの」を欲しがり執着する我が心であったのでした。喜びを得るはずが、欲すれば欲するほど苦痛を増す。何という皮肉でしょうか。

「地獄」4/7(前)につづく)

英語で聞法「地獄」2/7

 前回「地獄」1/7(後)では妙好人 浅原才市氏の詩をとおして、我が鬼たる本性(my unscrupulousness)を目の当たりにするというお話をしました。
 今回より本シリーズの主題「地獄(Hell. Naraka)」に入ってまいります。

I have hell within my heart, and all day every day, the flames burn fiercely there.

真宗教団連合『法語カレンダー2023年3月』より

地獄はどこに!?

 地獄(Hell or Purgatory)とは“地下に在る牢獄(Jail underground)„の意味です(梵語「Naraka」の意訳。音訳では「奈落」)。現世で悪業(Karma, one’s accumulated actions)をなした者が死後その報いを受ける(being reborn to suffer for one’s karma to achieve its full result)苦しみ極まる世界。。。とされています。しかしながら、このご法語の作者 浅原才市氏は我が「こころにじごくがあるよ(I have hell within my heart)」と述べておられます。本当はどこに地獄があるのでしょうか。

 後半の句を見てみると、心に「ほのおがもえる(the flames burn fiercely there)」と補足して表現されています。「地獄がある」ことを「ほのおがもえる」ことと言い換えていると見ることができます。
 炎は仏教においては煩悩のひとつである瞋恚(怒り)の象徴とされることもありますが、才市氏は怒りだけにとどまらず、貪欲さも慢心も含め様々な煩悩を地獄の「ほのおがもえる」と表したようです。

地獄は悪果

 地獄の観念は仏教成立以前から存在しましたが、仏教において応報思想と輪廻思想が結びついて説かれるに至りました。釈尊が説かれた真理 “縁起„は応報思想を受容し発展させたものです。応報思想とは、“善い行いは善い結果を生み(善因善果)、悪い行いは悪い結果を生む(悪因悪果)„という思想です。悪因悪果を生まれ変わった後の世まで延長させると、苦しみを受ける世界、すなわち地獄という世界が展開されます。
 しかし悪果として苦しみを地獄とするなら、現世にありながら地獄を受けることはあり得ます。

 したがって、狭義の地獄は死後の苦しみの世界を指し、広義の地獄ではいま現に受ける苦しみ(あるいは悪因である煩悩)を含むと言えます。

「地獄」3/7につづく

※ 参照『往生要集を読む』中村元、『浄土真宗辞典』浄土真宗本願寺派総合研究所

令和6年度 祠堂経

大好評の大阪の義本師を再びお招きしました

祠堂経とは

 祠堂経は、大誓寺におきましては毎年6月第三土日の恒例法要です。
 かつては祠堂志(※1)をお納めいただいた方のお披露目をしたり、お寺によっては過去1年で亡くなった方の物故者法要を兼ねて修行されているようですが、当寺では現在、ともにお仏法を聞くことができる慶びを再確認する場となっております。

歯ごたえのある味わい深いお話

 今年度も引き続き大阪よりお招きした義本先生にご布教を賜りました。今回も義本先生がお越しになると聞き、他寺院の僧侶や門徒さまも駆けつけ、ご法話中は熱心にメモを取るなどしておいででした。たしかに、昨年に比べさらに内容の濃いものとなりました。

 ご法話では、「浄土真宗のボランティアは我が手柄としない」であるとか、「声は耳に届いて初めて聲(※声の旧字)になる」とか、「正信とは“一„を“止„める信心」などなど、幾度も咀嚼して味わえるスルメのような歯ごたえのあるお話をいただきました。

 ご聴聞の皆さまはそれぞれ満足してお帰りになったように見受けられました。

 次のご法縁には、お正信偈(※2)の内容を少しずつともにお味わいしたいとの義本師の仰せですので、どうぞどなたさまもご参拝くださいませ。(以上)

<注釈>
※1、永代にわたり祠や御堂を維持し礼拝の対象を護持し、後世へ伝えていくためのご懇志。かつては祠堂銭といったようです。
※2、浄土真宗の開祖 親鸞聖人の著『顕浄土真実教行証文類』の『行文類』に収められている七言120句の偈文(うた)。真宗僧侶(門徒)に日常の勤行として親しまれています。

英語で聞法「地獄」1/7(後)

 前回「地獄」1/7(前)では、
鏡をのぞくと、手を合わせた自分の額に鬼のツノ」。。。というところまでお話しました。

I am reminded of my unscrupulousness whenever I worship Amida with my hands together in gasshō.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年9月』より

妙好人 浅原才市

 まずは、こちらの肖像画をご覧ください。注目すべきはその額のツノです。

ちょっとびっくりしますが、実際にツノが生えていたわけではなかったようです。 

 この肖像画の人物は江戸時代末期の妙好人(※1)浅原才市という方です。才市は、肖像画を描いてもらった際に元々のツノなしの画を見て「こりゃ、わしじゃない」と言って描きなおしてもらったそうです。才市はなぜそんなにもツノにこだわったのでしょうか。
 その想いの一端が伝わる才市の詩(※2)がのこっています。

 じゃけん(※3)なり あさましなり 鬼なり
 これが才市がこころなり
 あさまし あさまし あさましや

また、こんな詩もあります。(一部抜粋)

 じゃけん、京まん、あくさいち。
 あさまし、あさまし、あくさいち。
 ひとのものわ、なんぼでも、ほしい。
 とうても、とうても、ほしい、ほしい、
 ほしいのつのがはゑ、
 あさまし、あさまし、あさまし、
 じゃけんものとわ、このさいちがことよ

 鬼のツノは才市にとって自身の心そのもの、つまり、あさましさ(unscrupulousness)・貪欲さ(greed)の象徴だったのです。才市はどこまでも真正面から自身の闇、鬼たる自己(my unscrupulousness)を見つめたのでした。

み仏の灯明と鏡

 ただ、人は自身の罪深さや心の汚れを、自分ひとりで知り、直視することは不可能ではないでしょうか。ちょうど灯りと鏡なしでは自分自身のすがたを見られないように。
 才市は聞法を重ねるうちに、「ねんぶつの、ほおから、わしのこころにあた」り、「阿弥陀佛そのものを体験した」ようです。難しい言葉でいうと、尽十方無礙光(※4)(Amida’s infinite light and unobstructed compassion)という如来の智慧の灯明と、浄土への喚び覚まし(called and reminded by Amida Buddha)という慈悲の鏡に出遇われたと言えるでしょう。

 悪にかたまる わたくしが 悪をも見ずに 法(※5)をよろこぶ
 親のおかげで 機
(※5)をとられ ご恩うれしや なむあみだぶつ

 わたしゃしやわせ よい耳もろた
 ごんとなったる鐘の音 親のきたれのごさいそく
 浄土へやろをの 親のさいそく

 自分の鬼のツノは目を背けたくなるものです。しかしその姿を如来の智慧によって知らされるということは、同時にその私を必ず往生成仏させずに済まさない如来さまのおすくいの中にもう既にある、ということ。

 ツノのある私のためにこそ、阿弥陀さまはいらっしゃったのでした。

「地獄」2/7へつづく

<脚注>

※1、妙好人・・・Myokonin the devotee who lives a life of total dedication to Amida. 念仏者。特に浄土真宗の篤信者。“妙好華(白い蓮の華)の如き人„の意。

※2、才市の詩・・・ノート100冊分にも上るといわれる。披露のためというより、自然と湧き出した内なる法味(仏法の味わい)を書き留めずにいられなかったようである。

※3、じゃけん・・・Incorrect views in Buddhism. 邪見。邪慳。仏の教えに背く考え。正信偈に「弥陀仏の本願念仏は、邪見・憍慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもって難し」とある。

※4、尽十方無礙光・・・Amida’s infinite light and unobstructed compassion. 十方世界(あらゆる世界)を照らし尽くし衆生をすくう阿弥陀仏の無礙(何の妨げもない)の光明。ゆえに何時でも何処でも、どれほどの悪鬼たる私でも、阿弥陀仏のすくいの真っただ中である。

※5、法と機・・・Amida Buddha and sentient beings to be enlightened. 「法」は仏の教えまたは弥陀仏の本願力、「機」は仏の救いの対象または衆生の信心。才市は「法」を阿弥陀仏そのもの、「機」をあさましい自身そのもの、と観ているようである。

英語で聞法「地獄」1/7(前)

今回からは「地獄」

 英語で聞法、前回まで「念仏」(the Nembutsu, chanting the name of Amida Buddha)と題してご法語を味わってまいりました。
(※英語で聞法「念仏」1)

 その際、下の法語をご紹介しました。
「念仏とは自己を発見することである」
The Nembutsu enables you to discover yourself.

 今回から7句の法語とともに「地獄」(Naraka)と題して、発見される自己(本当の自分、ありのままのすがた)について観ていきます。

I am reminded of my unscrupulousness whenever I worship Amida with my hands together in gasshō.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年9月』より

私は鬼だった!?

 こちらの法語は「念仏とは自己を発見することである」を言い換えたものといえます。
念仏」→「手を合わせ仏さまを拝む( I worship Amida with my hands together in gasshō)」
自己を発見する」→「わたしのツノを知らされる(I am reminded of my unscrupulousness)」です。

念仏」は浄土真宗において、阿弥陀如来のご本願に由来する「称名念仏(chanting the name of Amida Buddha, 南無阿弥陀仏と口にとなえる)」を指しますが、ここでの英訳では“合掌„という身の行い(身業)に焦点をあて「with my hands together in gasshō」と付されています。

ツノ(my unscrupulousness)」とは鬼の角のことです。つまり「知らなかったが私は鬼だったのか」と気が付かされるというのです。

 鏡をのぞくと、手を合わせた自分の額に鬼のツノ。。。なんだか想像したくない画です。
 そんなことあるのでしょうか。

(後)につづく

Englishクラス紹介<評価方法>

いま現在の英語力を知る(現況分析)

 当寺の公益活動「寺子屋大誓寺(※1)」Englishクラスについてご紹介します。

 生徒(寺子)さんの評価方法についてです。
 まずは英語クラスの生徒さんお一人ごとにお渡ししている評価のお知らせをご覧ください(下図)。その後、詳細を述べていきます。

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(図1)英語力評価(例)

英語力を数値化(グラフ化)

現況分析の上半分です。
英語力を具体的な数値とグラフでみえる化しています。

(図2)

次につながる具体的アドバイス

こちらは現況分析の下半分です。
苦手・得意が分かったとして、具体的に何を評価されたか。また、次は何をしていけば良いかを参考として提示しています。

(図3)

以上がEnglishクラス評価方法の一例(※2)です。

当クラスでは、寺子さんが英語を楽しみ、自身で気付き、自ら学びを深めるお手伝いをさせていただくという方針で進めております。

現在も寺子さん募集しておりますので、お気軽にご相談くださいませ。(2024年4月30日現在)

(※1) 寺子屋大誓寺とは、大誓寺が取り組む公益活動の一つ。お寺での学びと健やかな育成を通じて、開かれたお寺として世代・性別・門徒の区別なく親しんでいただく非営利目的の活動です。

(※2) 住職が講師を担当した際にお渡ししています

支えたい

– あなたも参加しませんか –

 当寺では公益活動として、ボランティアおよび募金活動に取り組んでおります。ご賛同いただける皆さま、随時募集しております。(令和6年3月現在)

ボランティア

募金活動

 国内においては、人口減少と急激な高齢化や家族構成の多様化そして頻発する自然災害により、私たちの生活基盤・地域社会に不安が生じております。
 世界に目を向ければ、貧困や紛争に加え、地球温暖化による自然災害の激甚化、そして各地で勃発している軍事侵攻などにより、家族を亡くし、食べる物も住む場所も無くして飢餓と苦痛と絶望にあえぐ人々が溢れております。

念仏者の生き方

 阿弥陀如来のご本願はそうした地獄・餓鬼・畜生に堕ちる者のない世界をつくり、誰ひとり取りこぼすことなく必ずすくうというものです。そして「南無阿弥陀仏」のお念仏がおすくいの手段です。お念仏を聞き、申す者は、不安や苦しみのなかにいる人を放っておくことはできません。それがすでに如来のすくいにあずかった念仏者の生き方です。

地域(わたし)も世界(たにん)も

 そうした理由から、地元に向けては学問ボランティア活動 “寺子屋大誓寺„ を開設し、地域の助けとなることで将来の地域共助の実現を目指します。
 広く日本全国や世界に向けては募金による間接支援に取り組んでおります。

 ボランティア・募金の詳細は冒頭のリンク先へ。お問い合わせは下記「問い合わせ」まで。

お問い合わせ

よろこびまもりたまふなり

画像は震災後に、ご門徒さまからお引き取りした菩薩さま。つながっているように見えるが、首は胴から離れ、胸に大穴が空いてしまっている。

身代わりに⁉

 この度の震災(R6.1.1 能登地震)において、ご門徒さま宅のお仏壇にも被害が出ています。
 先日あるご門徒さま宅に震災後はじめてお伺いしたところ、不思議そうなご様子でお仏像を持って来られて仰るには、

「おかげさまで家族もみんな無事でしたが、、、。これって身代わりになってくださったんでしょうか」
と、その掌には菩薩さまの銅像が抱えられていました。

 私には正直なところ分からず何ともお答えすることが出来ませんでしたが、互いに無事でいられたことを喜び、ともにお念仏申し上げたのでした。

浄土真宗の現世利益

 親鸞聖人は現世利益(この世で受けられる利益)をお示しになりましたが、それは己の欲望(息災延命・家内安全・合格・安産・商売繁昌等)充足とはどうやら違うようなのです。
 聖人の仰せになる利益とは、たとえ苦しみの中に在っても充実し、感謝し、喜び、希望をもって生きていけることを如来さまに恵まれることをいいます。

たとえ苦しみのなかにあっても

 ですから、被災したこと自体は苦しみに違いありませんが、み仏に護られているという感謝の心で前向きに歩めること、これこそがこのたび菩薩さまから頂いたご利益でありましょう。

能登半島地震をうけて

心よりお見舞い申し上げます

 この度の能登半島地震において被害を受けられました皆さまには、
心よりお見舞い申し上げます。また、依然避難を余儀なくされておられる方々には、
できる限り早く日常を取り戻されますようお念じ申し上げます。

 当寺においても多少の被害は出ましたが、人的被害はなく、
インフラ・家屋の構造物ともに深刻なダメージはありませんでした。

 しかしながら、特に氷見市北部、能登地方では大変な被害が出ており(下画像)、
能登においては水道・電気・通信・道路等のインフラも未復旧であり、
いまだ避難されておられる方は1万5千人を超えます(令和6年1/20現在)。

ともに、、、

 上の画像は先日筆者が氷見市北部・中能登町をお見舞いにうかがった際に通りかかり、
目についた被害のごく一部です。
。。。現場に立つと、言葉もなく呆然と立ちつくす他ありません。

 当寺にも被害は出ており、将来は決して安泰ではございません。しかし、現にいま大変な困難の中にある方々がいるなら何かせずにはおられません。ともにいようと思わずにおれません。それが阿弥陀さまのなさるだろうことでしょうし、如来のお慈悲のもとにある私、僧侶のすべきことです。

 危機の際には南無阿弥陀仏の南の字も出てこない私ですが、そのような私だからこそ、ともにお出でになる阿弥陀如来さま。どなたさまも決して独りきりではございません。(以上)

令和5年度 祠堂経(3)

6月に行った祠堂経法要でのご法話を振り返り、味わいます

祠堂経(2)より続き

 ご法話では、含蓄に富んだ内容のお話を数多くいただきました。
 たとえば「善人が集まると互いに衝突する」「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」「“そのままのすくい„は“このままのすくい„とは違う」などなど。

 今回は「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」についてよく味わってみたいと思います。

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 生活のなかで、ときに「親戚に不幸があって。。」という言葉を聞いたりしませんか。これは親戚のどなたかが亡くなったことを言うときの決まり文句ですが、義本師のお言葉は、亡くなる人は本当に不幸なのかを考えさせられるご提起です。

 “不幸„と思っているのは誰でしょう。この世に遺される私にとっては不幸です。「もっと生きとってほしい」「あと10年(20年、30年)は。。」と。
 しかし亡くなっていく当人にとってはどうでしょうか。勿論、「もっと生きとりたい」「まだまだ死ねんがに、なんで。。⁉」という想いのなかには不幸(苦悩)しかありません。そのまま亡くなっていったとしたら、故人の人生のゴールは不幸だったということになってしまいます。
 それにしても、、、

 いったい誰が不幸のまま人生を終えたいでしょうか?

 死という不幸を、不幸のまま終わらせない力用(はたらき)が、阿弥陀如来のおはたらき、その智慧と慈悲が顕現した、“南無阿弥陀仏„の名号(お念仏)です。

 お釈迦さまは、いのちについて「流転生死海(るてんしょうじかい)」、つまり、この世を含めた苦しみ・まよい(“生死„)の世界を“海„にたとえ、またその海を生まれ変わり死に変わりしながらも、流され巡り続ける(“流転„)と教えて下さいました。
 となれば、私の死は、巡るいのちの通過点に過ぎません。ただ、その通過点の前も後も不幸であり続けるのか、それともそこから抜け出すのか。

 この生死流転という不幸からの離脱こそが往生成仏(すくい)であり、「必ずすくう(往生成仏させる)この阿弥陀にまかせよ」という阿弥陀仏のお喚び声が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。聞くもの(念仏申す者)は皆ともに浄土に往生させていただけます。

まとめると、
・死とは、“一巻の終わり„ではない
・死(人生のゴール)が不幸で終わるかどうかは如来のおすくいに出遇っているかどうかで決まる。
・なぜなら、おすくいによって、不幸で終わるはずのいのちが、皆一緒になって仏になるいのちへと変えられるからである。

          ◇

 もしかすると“不幸にも„亡くなっていった方は、次のように思われていたかもしれません。

「不幸じゃない。この世界で出遇えたから。
。。。あなたに」「。。。我が子に」「。。。父と母に」
「そして、南無阿弥陀仏に」


「だから、また必ず会えるよ、会おうね」と。
(以上)

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