「黒縄」とは墨縄(marking string)のことで、大工さんが材木に直線を引くための道具です。黒縄地獄において、まず罪人(a tormented sinner)は地獄の獄卒である鬼(Oni, an ogre the warden of Naraka)に熱鉄の地に伏せられ、熱鉄の黒縄でもって身体の縦横に線を引かれる。そして刀、斧あるいはのこぎりでもって縄目に従って切り割き分けられる。切り分けられた罪人らの肉体は段をなしてそこここに散り置かれる。。。なんとも気分の悪くなる光景です。
I have hell within my heart, and all day every day, the flames burn fiercely there.
真宗教団連合『法語カレンダー2023年3月』より
地獄はどこに!?
地獄(Hell or Purgatory)とは“地下に在る牢獄(Jail underground)„の意味です(梵語「Naraka」の意訳。音訳では「奈落」)。現世で悪業(Karma, one’s accumulated actions)をなした者が死後その報いを受ける(being reborn to suffer for one’s karma to achieve its full result)苦しみ極まる世界。。。とされています。しかしながら、このご法語の作者 浅原才市氏は我が「こころにじごくがあるよ(I have hell within my heart)」と述べておられます。本当はどこに地獄があるのでしょうか。
ただ、人は自身の罪深さや心の汚れを、自分ひとりで知り、直視することは不可能ではないでしょうか。ちょうど灯りと鏡なしでは自分自身のすがたを見られないように。 才市は聞法を重ねるうちに、「ねんぶつの、ほおから、わしのこころにあた」り、「阿弥陀佛そのものを体験した」ようです。難しい言葉でいうと、尽十方無礙光(※4)(Amida’s infinite light and unobstructed compassion)という如来の智慧の灯明と、浄土への喚び覚まし(called and reminded by Amida Buddha)という慈悲の鏡に出遇われたと言えるでしょう。
I am reminded of my unscrupulousness whenever I worship Amida with my hands together in gasshō.
真宗教団連合『法語カレンダー2022年9月』より
私は鬼だった!?
こちらの法語は「念仏とは自己を発見することである」を言い換えたものといえます。 「念仏」→「手を合わせ仏さまを拝む( I worship Amida with my hands together in gasshō)」 「自己を発見する」→「わたしのツノを知らされる(I am reminded of my unscrupulousness)」です。
「念仏」は浄土真宗において、阿弥陀如来のご本願に由来する「称名念仏(chanting the name of Amida Buddha, 南無阿弥陀仏と口にとなえる)」を指しますが、ここでの英訳では“合掌„という身の行い(身業)に焦点をあて「with my hands together in gasshō」と付されています。