英語で聞法「地獄」4/7(前)

 前回(「地獄」3/7)、地獄のひとつである“黒縄地獄(Marking String Naraka)„という例を挙げて、地獄の苦痛の原因を掘り下げました。今回は(前)(後)編に分けて、別の苦しみの世界について見ていきたいと思います。

非常識にもほどがある!?

 まずは本日のご法語を英訳とともにご覧ください。

We live taking what we have been given for granted but continue to express dissatisfaction.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年6月』より

「“あたりまえだ„と言うて」の英訳は「taking what we have been given for granted」ですが、何が「あたりまえ」なのかといえば、「what we have been given(もらったもの)」です。
 どうでしょうか。もし贈り物をした相手が「当たり前だ」などと言ってそれを自分のものにしたら。しかも「もうないの?これだけ?」と不満を漏らす。。「とんでもない人もいるもんだ」「こうは成りたくないね。非常識にもほどがある」とお思いになるのではないでしょうか。

“ありがとう„と“あたりまえ„

 皆さまは例えば、空気や水、家や親の存在、毎日の食事、そしていのち。。これらに最初から“ありがとう„という感謝の思いを持って過ごして来られたでしょうか。

 私はといえば小さい頃は特に、まったく思ってもいませんでした。親には感謝を口にするどころか「口うるさいな」「なんでこんな家なんだろ」と。食事に際しては「いただきます」と口では言いながら、平然と「なんかもっと美味いもんない?」と不満ばかりでした。

「ありがとう」と思わないというのは「“あたりまえだ„と言うて」いるのと同じこと( my unthankfulness means taking that for granted)です。“ありがとう„の意味は“有難い„つまり、“有って当たり前„とは真反対の意味だからです。

ほとけさまが教えて下さること

 幸いなことに私は、ほとけのみ教えをお聞きすることを通して、一切において当たり前に存在するものはない(※)(Nothing exists with no changing or permanent self)とお教え頂きました。食事ひとつとっても、それは多くのいのちと、多くの方々のお陰様の上に成り立っていること。すべての出遇いは本当にたまたま偶然が重なりあって、出遇いがたくして出遇ったこと。この私といういのちを頂いたこと、お育て頂いたことが、何とたくさんのご縁によるものかを。

 それでもふとした拍子に「もっと欲しい。もっと良いもんを」「なんで俺ばっかり」と、「まだ不足を言う」私が出て参ります。それこそが次にご紹介する私の貪欲さが生みだす醜悪な亡者、“餓鬼(ガキ、Preta)„であり、私が趣くもう一つの苦しみの世界(Another Path in pain in the cycle of karmic reincarnation)、餓鬼道です。

 (「地獄」4/7(後)へつづく)

※ 三法印(さんぼういん)の一二、諸行無常・諸法無我。諸行無常は、因縁によって作られたもの(有為法)は常に変化してとどまることがないこと。諸法無我は、すべてのもの(有為法・無為法)は永遠不変の実体(我)ではないという仏教の根本真理。The doctrine of impermanence and no-self.

英語で聞法「地獄」3/7

 前回「地獄」2/7では地獄はどこに?をテーマにお話ししました。
 今回はこの世における地獄(Naraka manifesting itself as a result of one’s bad deeds in the mundane world)のひとつのすがたをご紹介します。

Material wealth does not tie me down. Rather, it is the intention to seize material wealth that does.

真宗教団連合『法語カレンダー2015年6月』より

黒縄地獄(Marking String Naraka)

 浄土真宗七高僧のお一人、源信和尚(942-1017)の著作『往生要集』によれば、八大地獄のなかに「黒縄(こくじょう)地獄」というものが存在します。

図:黒縄地獄
図上部の獄卒らは罪人に黒縄でもって線を引こうとしている。下部では引かれた線に沿って罪人を切り分けている。

 「黒縄」とは墨縄(marking string)のことで、大工さんが材木に直線を引くための道具です。黒縄地獄において、まず罪人(a tormented sinner)は地獄の獄卒である鬼(Oni, an ogre the warden of Naraka)に熱鉄の地に伏せられ、熱鉄の黒縄でもって身体の縦横に線を引かれる。そして刀、斧あるいはのこぎりでもって縄目に従って切り割き分けられる。切り分けられた罪人らの肉体は段をなしてそこここに散り置かれる。。。なんとも気分の悪くなる光景です。

黒縄の正体

 地獄の鬼がその怪力でもってこの身をねじ伏せ、打ち付けてくる苦痛極まりない熱鉄の黒縄。一体なぜこんなにも熱いのか、なぜこんなにも苦痛なのか、そしてなぜ黒いのか
 親鸞聖人の著『教行信証』に涅槃経を引用されて仰せのことには、

「黒業あることなければ、黒業の報なし。白業あることなければ、白業の報なし。」

 黒は悪、不浄を表します。したがって黒業とは悪業(悪い行い。bad deeds)のこと。悪業がなかったなら苦しみという悪果を引き起こすこともない、という意味でしょう。ちなみに白はその逆です。
 つまり、黒縄が黒いのは己の引き起こした悪行ゆえだったのです。その我が行いが苦痛の縄となり自らに向けられるのです。

自縄自縛

 ここで今一度冒頭のご法語をご覧ください。

 「もの」の英訳を見てみると「material wealth」とあります。つまり物質的な富です。言い換えれば財産です。しかし、問題は物や金銭だけではありません。人も、為すことも含め、私の欲しがる対象のすべてです。
 それら「もの」が私を縛るのではない、とご法語で示されます。

 そうです、私を縛る黒縄は「もの」を欲しがり執着する我が心であったのでした。喜びを得るはずが、欲すれば欲するほど苦痛を増す。何という皮肉でしょうか。

「地獄」4/7(前)につづく)

英語で聞法「地獄」2/7

 前回「地獄」1/7(後)では妙好人 浅原才市氏の詩をとおして、我が鬼たる本性(my unscrupulousness)を目の当たりにするというお話をしました。
 今回より本シリーズの主題「地獄(Hell. Naraka)」に入ってまいります。

I have hell within my heart, and all day every day, the flames burn fiercely there.

真宗教団連合『法語カレンダー2023年3月』より

地獄はどこに!?

 地獄(Hell or Purgatory)とは“地下に在る牢獄(Jail underground)„の意味です(梵語「Naraka」の意訳。音訳では「奈落」)。現世で悪業(Karma, one’s accumulated actions)をなした者が死後その報いを受ける(being reborn to suffer for one’s karma to achieve its full result)苦しみ極まる世界。。。とされています。しかしながら、このご法語の作者 浅原才市氏は我が「こころにじごくがあるよ(I have hell within my heart)」と述べておられます。本当はどこに地獄があるのでしょうか。

 後半の句を見てみると、心に「ほのおがもえる(the flames burn fiercely there)」と補足して表現されています。「地獄がある」ことを「ほのおがもえる」ことと言い換えていると見ることができます。
 炎は仏教においては煩悩のひとつである瞋恚(怒り)の象徴とされることもありますが、才市氏は怒りだけにとどまらず、貪欲さも慢心も含め様々な煩悩を地獄の「ほのおがもえる」と表したようです。

地獄は悪果

 地獄の観念は仏教成立以前から存在しましたが、仏教において応報思想と輪廻思想が結びついて説かれるに至りました。釈尊が説かれた真理 “縁起„は応報思想を受容し発展させたものです。応報思想とは、“善い行いは善い結果を生み(善因善果)、悪い行いは悪い結果を生む(悪因悪果)„という思想です。悪因悪果を生まれ変わった後の世まで延長させると、苦しみを受ける世界、すなわち地獄という世界が展開されます。
 しかし悪果として苦しみを地獄とするなら、現世にありながら地獄を受けることはあり得ます。

 したがって、狭義の地獄は死後の苦しみの世界を指し、広義の地獄ではいま現に受ける苦しみ(あるいは悪因である煩悩)を含むと言えます。

「地獄」3/7につづく

※ 参照『往生要集を読む』中村元、『浄土真宗辞典』浄土真宗本願寺派総合研究所

英語で聞法「地獄」1/7(後)

 前回「地獄」1/7(前)では、
鏡をのぞくと、手を合わせた自分の額に鬼のツノ」。。。というところまでお話しました。

I am reminded of my unscrupulousness whenever I worship Amida with my hands together in gasshō.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年9月』より

妙好人 浅原才市

 まずは、こちらの肖像画をご覧ください。注目すべきはその額のツノです。

ちょっとびっくりしますが、実際にツノが生えていたわけではなかったようです。 

 この肖像画の人物は江戸時代末期の妙好人(※1)浅原才市という方です。才市は、肖像画を描いてもらった際に元々のツノなしの画を見て「こりゃ、わしじゃない」と言って描きなおしてもらったそうです。才市はなぜそんなにもツノにこだわったのでしょうか。
 その想いの一端が伝わる才市の詩(※2)がのこっています。

 じゃけん(※3)なり あさましなり 鬼なり
 これが才市がこころなり
 あさまし あさまし あさましや

また、こんな詩もあります。(一部抜粋)

 じゃけん、京まん、あくさいち。
 あさまし、あさまし、あくさいち。
 ひとのものわ、なんぼでも、ほしい。
 とうても、とうても、ほしい、ほしい、
 ほしいのつのがはゑ、
 あさまし、あさまし、あさまし、
 じゃけんものとわ、このさいちがことよ

 鬼のツノは才市にとって自身の心そのもの、つまり、あさましさ(unscrupulousness)・貪欲さ(greed)の象徴だったのです。才市はどこまでも真正面から自身の闇、鬼たる自己(my unscrupulousness)を見つめたのでした。

み仏の灯明と鏡

 ただ、人は自身の罪深さや心の汚れを、自分ひとりで知り、直視することは不可能ではないでしょうか。ちょうど灯りと鏡なしでは自分自身のすがたを見られないように。
 才市は聞法を重ねるうちに、「ねんぶつの、ほおから、わしのこころにあた」り、「阿弥陀佛そのものを体験した」ようです。難しい言葉でいうと、尽十方無礙光(※4)(Amida’s infinite light and unobstructed compassion)という如来の智慧の灯明と、浄土への喚び覚まし(called and reminded by Amida Buddha)という慈悲の鏡に出遇われたと言えるでしょう。

 悪にかたまる わたくしが 悪をも見ずに 法(※5)をよろこぶ
 親のおかげで 機
(※5)をとられ ご恩うれしや なむあみだぶつ

 わたしゃしやわせ よい耳もろた
 ごんとなったる鐘の音 親のきたれのごさいそく
 浄土へやろをの 親のさいそく

 自分の鬼のツノは目を背けたくなるものです。しかしその姿を如来の智慧によって知らされるということは、同時にその私を必ず往生成仏させずに済まさない如来さまのおすくいの中にもう既にある、ということ。

 ツノのある私のためにこそ、阿弥陀さまはいらっしゃったのでした。

「地獄」2/7へつづく

<脚注>

※1、妙好人・・・Myokonin the devotee who lives a life of total dedication to Amida. 念仏者。特に浄土真宗の篤信者。“妙好華(白い蓮の華)の如き人„の意。

※2、才市の詩・・・ノート100冊分にも上るといわれる。披露のためというより、自然と湧き出した内なる法味(仏法の味わい)を書き留めずにいられなかったようである。

※3、じゃけん・・・Incorrect views in Buddhism. 邪見。邪慳。仏の教えに背く考え。正信偈に「弥陀仏の本願念仏は、邪見・憍慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもって難し」とある。

※4、尽十方無礙光・・・Amida’s infinite light and unobstructed compassion. 十方世界(あらゆる世界)を照らし尽くし衆生をすくう阿弥陀仏の無礙(何の妨げもない)の光明。ゆえに何時でも何処でも、どれほどの悪鬼たる私でも、阿弥陀仏のすくいの真っただ中である。

※5、法と機・・・Amida Buddha and sentient beings to be enlightened. 「法」は仏の教えまたは弥陀仏の本願力、「機」は仏の救いの対象または衆生の信心。才市は「法」を阿弥陀仏そのもの、「機」をあさましい自身そのもの、と観ているようである。

英語で聞法「地獄」1/7(前)

今回からは「地獄」

 英語で聞法、前回まで「念仏」(the Nembutsu, chanting the name of Amida Buddha)と題してご法語を味わってまいりました。
(※英語で聞法「念仏」1)

 その際、下の法語をご紹介しました。
「念仏とは自己を発見することである」
The Nembutsu enables you to discover yourself.

 今回から7句の法語とともに「地獄」(Naraka)と題して、発見される自己(本当の自分、ありのままのすがた)について観ていきます。

I am reminded of my unscrupulousness whenever I worship Amida with my hands together in gasshō.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年9月』より

私は鬼だった!?

 こちらの法語は「念仏とは自己を発見することである」を言い換えたものといえます。
念仏」→「手を合わせ仏さまを拝む( I worship Amida with my hands together in gasshō)」
自己を発見する」→「わたしのツノを知らされる(I am reminded of my unscrupulousness)」です。

念仏」は浄土真宗において、阿弥陀如来のご本願に由来する「称名念仏(chanting the name of Amida Buddha, 南無阿弥陀仏と口にとなえる)」を指しますが、ここでの英訳では“合掌„という身の行い(身業)に焦点をあて「with my hands together in gasshō」と付されています。

ツノ(my unscrupulousness)」とは鬼の角のことです。つまり「知らなかったが私は鬼だったのか」と気が付かされるというのです。

 鏡をのぞくと、手を合わせた自分の額に鬼のツノ。。。なんだか想像したくない画です。
 そんなことあるのでしょうか。

(後)につづく

英語で聞法「念仏」3(後)

Although it is me that utters and hears the phrase “Namo Amida Butsu,” actually it is the call of my parent, Amida, promising to guide me to the Pure Land.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年3月』より

「念仏」3 (前) からのつづきです。「念仏」3ではお念仏がどう自己を発見することにつながり、阿弥陀如来が何とおよびであるか、という2つの問いをうかがっています。
前回は“阿弥陀„さまの親たるゆえんを、詠者の立場にたって掘り下げました。

それでは「つれてゆくぞ(promising to guide me to)」について。
どちらに?それは英訳文末に明記してあります「the Pure Land(極楽浄土)」です。

アミダさまがこの私を極楽浄土へつれて往く(生まれさせる)と仰る。
それはつまりアミダさまは私を、“いまだ浄土に生まれておらず„ かつ “浄土に生まれるべき者„ とご覧になっていることが窺えます。
この如来の智慧の眼を通してこそ、我が本来のすがたを目の当たりにすることができる。言い換えれば、仏法の鏡の前に立ってこそ(use the mirror of the Buddha Dharma to look at myself)、自分は本当の自分になることができるのです。

お念仏は私ではなく阿弥陀如来のおはからい(the Vow and the Practice of Amida Buddha)であったと聞かせていただけば、“自己の発見„ という私の身に起こる出来事は(私にとり二度目の誕生ともいえるくらい大変革ではあるけれど)決して大げさなものではなかったのです。

(「念仏」おわり)

次回以降について)
私の生き方、いのちのありようと深くかかわるのは「地獄・餓鬼・畜生・(修羅・人・天)」といわれる世界です。
いまだ往生を遂げていない私たちがかつて在りつづけ、かつ現在も在る世界だと。
どのような世界なのか。うかがって参りましょう。

英語で聞法「念仏」3(前)

Although it is me that utters and hears the phrase “Namo Amida Butsu,” actually it is the call of my parent, Amida, promising to guide me to the Pure Land.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年3月』より

前回は “念仏(The Nembutsu)„ について、
1、どう“自己を発見すること(discover yourself)„ につながるのか
2、アミダさまは何と喚びかけて(calling to)いるのか
との問いのうち問1について、 “南無阿弥陀仏{Namu(Namo) Amida Butsu}„ を聞かせていただくことが、本来の自己を発見することにつながる、という私の受け止め(味わい)を述べさせていただきました。

しかしなぜ、ただ私が念仏を称え、それを聞く(utter and hear the phrase “Namo Amida butsu„) ことが自己の発見という大げさとも言えるものにつながるのでしょうか。

そのヒントとなるのが今回の法語です(それが問2の答えともなっています)。
この法語によると、私が称え聞く念仏はそのまま「親のよびごえ」だといいます。
??「親」??なぜ急に家族が出てくるのでしょう。
どこに連れていかれるのでしょうか。

そこで注目すべきはその英訳です。
「親のよびごえ」の部分の英訳をご覧いただくとこの様になっています。
the call of my parent, Amida
親を表す“my parent„と並べて “Amida(阿弥陀)„ と記してあります。このうたの詠み手は、阿弥陀如来さまのことを“親„さまと仰がれているのです。親は、、、

 いのちに換えても子を護り、
 子に憎まれようと正道を歩むことを促し、
 子が転んで泣けば、同じだけ痛みを感じ、
 苦しみ悲しみに寄り添い、
 遊びに夢中になる子が求めるより、
 ずっと前から傍らにおり声をかけつづけ、
 生まれてきてくれただけで十分と慈しみ、
 ともに帰る事ができる喜びに満たされる。

「親」の一文字に万感の想いをこめて、如来のお慈悲を嘆じておられるのです。

{ (後) につづく }

英語で聞法「念仏」2

If I do not use the mirror of the Buddha Dharma to look at myself, I am unable to see who I really am.

真宗教団連合『法語カレンダー2023年4月』より

前回、“念仏„ について、
1、どう“自己を発見すること(discover yourself)„ につながるのか
2、アミダさまは何と喚びかけて(calling to)いるのか
と問いを投げかけて終わっていました。今回は問1を考えてみましょう。

今回の法語では仏法(Buddha Dharma) が鏡であり、その前で初めて自分は本当の自分と出会う(see who I really am)と筆者は味わわれています。鏡は光の反射によって鏡像を映すものですから、この場合、み仏の光に私という存在がそのまま照らされて、そのすがたを目の当たりにするということでしょう。それは仏さまが拯(すく)うべき存在として私をどう捉えておられるかに表れています。お仏法を聞くことを通じて、本当の私が知らされる。

ところで、私たち真宗門徒にとって仏法とは浄土真宗のみ教えであり、本願念仏(the Nembutsu caused by the Primal Vow fulfilled) 、つまり「南無阿弥陀仏」のお念仏に尽きます。

ですから “南無阿弥陀仏(Namu Amida Butsu)„ を聞かせていただくことが、本来の自己を発見することにつながる、と言えるでしょう。

(続く)

英語で聞法 「念仏」1

The Nembutsu enables you to discover yourself.

真宗教団連合『法語カレンダー2020年10月』より

念仏は英語で「The Nembutsu」。。。
なんとそのままでした。

お念仏は私の口にとなえられるもの「口称(chanting)」 であり、耳に聞こえる阿弥陀如来のお喚び声「名号(the Name of Amida Buddha calling to the devotee)」です。

The Nembutsu」によって「念仏」が持つ醍醐味を損なうことなく表現しています。
しかしそれがどう“自己を発見すること(discover yourself)„ につながるのでしょうか⁉
そしてアミダさまは何と喚びかけて(calling to)いるのでしょうか⁉
(続く)

Copyright © 浄土真宗本願寺派 大誓寺 All Rights Reserved.