前回前編では「執着(adhere to, seize)」の仏教的な概念に触れた上で、ご法語の意味するところは、人の浅ましいほどの自己中心性(selfishness)だというところまで申し上げました。

It is the self among all things that we most adhere to.
真宗教団連合『法語カレンダー2020年6月』より
源信 著『往生要集』
平安中期の天台僧、源信和尚(恵心僧都942-1017)に主著『往生要集(The Essentials of Rebirth in the Pure Land)』がありますが、このお書物によって近代日本人の浄土観・地獄観(Modern Japanese view of Pure Land and Naraka)が形作られたと言えます。例えば「地獄(Naraka)」「極楽(Pure Land of Amida Buddha)」「お迎え(※1)」「阿鼻叫喚(※2)」「ちくしょう(Animal)」「ガキ(Preta)」これらの言葉も現在では広く社会に浸透しています。
本書の概要はまず、人が輪廻し趣く苦しみの世界(Six Path in the Cycle of Rebirth)である地獄・餓鬼・畜生・修羅(World of Asura the antideva)・人・天(World of Deva the celestial beings)の六道を紹介し“厭離穢土”(濁りきった世を厭い離れること Loathing the Defiled Realm)を唱え、次に“欣求浄土”(阿弥陀仏の世界である極楽浄土への往生を願い求めること Seeking the Pure Land)を十種の楽(喜び Ten Bliss)とともに訴えたうえで、末世の往生のために念仏を勧める(Instructing all being to practice Nembutsu for salvation within the time of declining dharma)という流れです。
源信和尚は“地獄は我々自身のすがた”と観た天台地獄観(※3)をうけてこの書を著されました。地獄と同様に畜生を含め他の五悪趣にも厭うべき現世の人のすがたを見られたとしても何ら不思議はありません。
畜生(畜生趣、畜生道)
では畜生(Animals)とはどの様な存在なのでしょうか。前掲の『往生要集』より抜粋すると、、
第三に、畜生道を明さば(中略)三十四億の種類あれども、惣じて論ずれば三を出でず。一には禽類、二には獣類、三には虫類なり。
畜生とは要は自然界にいくらでも見かける動物、鳥、虫たちのことのようです。もう少し見てみますと、、
かくの如き等の類、強弱相害す。もしは飲み、もしは食ひ、いまだ曾て暫くも安らかならず。昼夜の中に常に怖懼を懐けり。
これら畜生のすることといえば、互いに害し合うか、飲むか食うだけであり、不安と恐怖を抱かぬ時はひと時もない、とお示しになります。
振り返るわが身は
前回ご法語について述べました、「何よりも執着せんとするものは自己」の「何よりも」は他者も含めてのことと理解されると。どこまでも自己にのみ執着せんとする者は、他者を押し退け、休むことなく自分に都合の良いものを貪るものと言えはしないでしょうか。まさに仏教の戒める自己中心性です。
ここでわが身を振り返ると、家族と過ごすとき、街を歩くとき、車に乗っているとき、買い物をするとき、人前に出るとき、会話するとき。予定を立てるとき。。枚挙に暇なく、生きてきた過去すべて、いずれもそこに自己がない場合はありません。「他人のため」「社会のため」というときでさえ、“認められたい”と欲する私が中心にいます。
振り返るわが身は、他のいのちを押し退け貪るばかりの畜生そのもの(It is shown myself that I’ve been Animal only devouring all other lives)でもあったようです。
(「地獄」6/7につづく)
(脚注)
※1、聖衆来迎(しょうじゅらいこう Welcoming approach)。往生浄土を願う人の臨終に、阿弥陀仏が菩薩、聖衆を率いて迎えに来ること。但し、他力念仏(阿弥陀仏を頼り念仏申す)の人は阿弥陀仏の摂取(一旦すくい取ったなら決して捨てない)の利益によって、信心(阿弥陀仏を頼りとする心)をいただいて後より往生に至るまで常に仏・菩薩の来迎にあずかり護られるとされる。
※2、八大地獄のうち、第八の阿鼻地獄(Avici)と第四の叫喚地獄(Outcry Naraka)のこと。獄卒による不断の尋常でない責め苦により、地獄に堕ちた者の口から絶え間なく発せられる絶叫のような苦痛の叫びを表す。
※3、参考文献『往生要集を読む』中村 元