令和6年度 祠堂経

大好評の大阪の義本師を再びお招きしました

祠堂経とは

 祠堂経は、大誓寺におきましては毎年6月第三土日の恒例法要です。
 かつては祠堂志(※1)をお納めいただいた方のお披露目をしたり、お寺によっては過去1年で亡くなった方の物故者法要を兼ねて修行されているようですが、当寺では現在、ともにお仏法を聞くことができる慶びを再確認する場となっております。

歯ごたえのある味わい深いお話

 今年度も引き続き大阪よりお招きした義本先生にご布教を賜りました。今回も義本先生がお越しになると聞き、他寺院の僧侶や門徒さまも駆けつけ、ご法話中は熱心にメモを取るなどしておいででした。たしかに、昨年に比べさらに内容の濃いものとなりました。

 ご法話では、「浄土真宗のボランティアは我が手柄としない」であるとか、「声は耳に届いて初めて聲(※声の旧字)になる」とか、「正信とは“一„を“止„める信心」などなど、幾度も咀嚼して味わえるスルメのような歯ごたえのあるお話をいただきました。

 ご聴聞の皆さまはそれぞれ満足してお帰りになったように見受けられました。

 次のご法縁には、お正信偈(※2)の内容を少しずつともにお味わいしたいとの義本師の仰せですので、どうぞどなたさまもご参拝くださいませ。(以上)

<注釈>
※1、永代にわたり祠や御堂を維持し礼拝の対象を護持し、後世へ伝えていくためのご懇志。かつては祠堂銭といったようです。
※2、浄土真宗の開祖 親鸞聖人の著『顕浄土真実教行証文類』の『行文類』に収められている七言120句の偈文(うた)。真宗僧侶(門徒)に日常の勤行として親しまれています。

令和5年度 祠堂経(3)

6月に行った祠堂経法要でのご法話を振り返り、味わいます

祠堂経(2)より続き

 ご法話では、含蓄に富んだ内容のお話を数多くいただきました。
 たとえば「善人が集まると互いに衝突する」「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」「“そのままのすくい„は“このままのすくい„とは違う」などなど。

 今回は「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」についてよく味わってみたいと思います。

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 生活のなかで、ときに「親戚に不幸があって。。」という言葉を聞いたりしませんか。これは親戚のどなたかが亡くなったことを言うときの決まり文句ですが、義本師のお言葉は、亡くなる人は本当に不幸なのかを考えさせられるご提起です。

 “不幸„と思っているのは誰でしょう。この世に遺される私にとっては不幸です。「もっと生きとってほしい」「あと10年(20年、30年)は。。」と。
 しかし亡くなっていく当人にとってはどうでしょうか。勿論、「もっと生きとりたい」「まだまだ死ねんがに、なんで。。⁉」という想いのなかには不幸(苦悩)しかありません。そのまま亡くなっていったとしたら、故人の人生のゴールは不幸だったということになってしまいます。
 それにしても、、、

 いったい誰が不幸のまま人生を終えたいでしょうか?

 死という不幸を、不幸のまま終わらせない力用(はたらき)が、阿弥陀如来のおはたらき、その智慧と慈悲が顕現した、“南無阿弥陀仏„の名号(お念仏)です。

 お釈迦さまは、いのちについて「流転生死海(るてんしょうじかい)」、つまり、この世を含めた苦しみ・まよい(“生死„)の世界を“海„にたとえ、またその海を生まれ変わり死に変わりしながらも、流され巡り続ける(“流転„)と教えて下さいました。
 となれば、私の死は、巡るいのちの通過点に過ぎません。ただ、その通過点の前も後も不幸であり続けるのか、それともそこから抜け出すのか。

 この生死流転という不幸からの離脱こそが往生成仏(すくい)であり、「必ずすくう(往生成仏させる)この阿弥陀にまかせよ」という阿弥陀仏のお喚び声が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。聞くもの(念仏申す者)は皆ともに浄土に往生させていただけます。

まとめると、
・死とは、“一巻の終わり„ではない
・死(人生のゴール)が不幸で終わるかどうかは如来のおすくいに出遇っているかどうかで決まる。
・なぜなら、おすくいによって、不幸で終わるはずのいのちが、皆一緒になって仏になるいのちへと変えられるからである。

          ◇

 もしかすると“不幸にも„亡くなっていった方は、次のように思われていたかもしれません。

「不幸じゃない。この世界で出遇えたから。
。。。あなたに」「。。。我が子に」「。。。父と母に」
「そして、南無阿弥陀仏に」


「だから、また必ず会えるよ、会おうね」と。
(以上)

Shinran’s Night 2023(親鸞聖人のゆうべ)報告

10/21(土)の夜、Shinran’s Night を開催しました。

 今年度のShinran’s Night も雨天にもかかわらず、よちよち歩きのお子さんからじぃじ・ばぁば世代の方まで幅広く多くの皆さまにご参加いただきました。ありがとうございました。

 雨天のため、参道に集まっての勤行・献灯は中止とし、御堂内でのお勤めとなりました。それでも色とりどりのペットボトルキャンドルがお供えされると、御堂は厳かな中にも華やかな雰囲気に包まれました。

 今回のメインイベントはハスの立体おりがみアートでした。
 皆さん少してこずりながらも集中して作業され、作業時間の一時間があっという間に過ぎてしまいました。皆さんが一所懸命に作ってくださったおかげで、かの極楽浄土の池に咲くといわれる色とりどりの蓮の華を想わせるハスの壁アートが完成しました!
壁アートは御堂内の北東側壁に展示してありますので、どなた様もぜひご覧にお出でください)

 イベント最後のくじ引きでは歓声とため息が入り交じり、この日一番の盛り上がりを見せました。くじ番号は蓮アートで各人が蓮おりがみを貼り付けた位置に対応しており、当選番号は機械によるランダム抽選ですから、自他の運が試されました。最後までどう転ぶか判らない展開に、子供たちは身を乗り出し、大人は笑顔があふれました。
 豪華賞品の当たった方はおめでとうございました。外した皆さまも次回きっと機会がまわってきますので、ぜひまたのご参加をおまちしております。

 次も老若男女だれもが楽しめるイベントを企画する予定です。これがひいては仏縁をいただく機会となりますことを期してご報告とさせていただきます。

Shinran’s Night 2023(親鸞聖人のゆうべ)案内

10/21(土)の報恩講おしょや(初夜勤行)は、お楽しみ満載

 今年度も去年に引き続き、Shinran’s Night(※) を開催いたします!

 去年のShinran’s Night 2022はご門徒さまに限らずご夫婦にお子さん、おじいちゃんおばあちゃんにお孫さん、中学生は友人同士で、兄弟姉妹でと、たくさんのご参加をいただきました。
 ご本尊と親鸞聖人へのお参りに始まり、お楽しみ会に移るとご参拝の皆さま、特に子供たちの歓声が御堂中に響き渡り、まさによろこびの場となりました。

今年度のおしょやもお楽しみ満載です。

 闇を照らす幻想的なキャンドル、あっと驚くハスの折り紙アート、まず一般の方は着ない法衣の試着体験、そして豪華賞品があたるくじ引きまで盛りだくさんなイベントを用意しております。

 参加は無料!どなたさまも参加、お待ちしております。

(※)Shinran’s Night とは

 世に生きるすべてのいのちをすくうとの阿弥陀如来の仰せ、本願念仏。そのナモアミダブツのお念仏との出遭いをよろこばれ、今に伝えてくださった親鸞聖人。Shinran’s Night(しんらんず ないと)とは親鸞聖人とともに仏縁をよろこび、そのご苦労に想いをはせる夕べの集いです。

令和5年度 祠堂経(2)

抜けるような五月晴れのもと、大阪の義本師をお招きして祠堂経法要をお勤めしました!

令和5年度祠堂経

祠堂経(1)より続き

 ご法話では、含蓄に富んだ内容のお話を数多くいただきました。
 たとえば「善人が集まると互いに衝突する」「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」「“そのままのすくい„は“このままのすくい„とは違う」などなど。

 今回は「善人が集まると互いに衝突する」についてよく味わってみたいと思います。

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 この場合、「善人」は正義の人です。自らの正しさ、正当性のために互いに退くことができません。

 ことわざに、「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」があります。
 以下は『論語』によるその故事です。

葉(しょう)の領主が孔子に「私の村に躬(きゅう)というまっすぐな行いをする者があります。その父が羊を盗んだところ、子はこれを訴えたのです」と話した。孔子は「私の村のまっすぐな行いをする者は違っています。父は息子の罪を隠し、息子は父の罪を隠します。不正直のように見えますが、そういう見かけの不正直の中に、本当の正直がこもっているのです」と答えたという。

 いかがでしょうか。
皆さまはどちらが正しいと思われますか。この後、領主はすぐに納得したのでしょうか。

 上記のどちらを正しいと判断されたにせよ、自らの内にある正しさを絶対と受け止めてしまうと衝突が起きます。
 仏教では、そのような自他への苦しみをもたらす行為を“悪„とされています。
 そうしますと「善人」こそが悪人であるという皮肉が起きえます。

 「善人が集まると互いに衝突する」というご法話には、私の眼のくもりを拭いさる力があります。仏さまのみ智慧をとおして初めて、「善人」であるという私自身に対する疑いを持つことができます。

(つづく)

令和5年度 祠堂経(1)

抜けるような五月晴れのもと、大阪の義本師をお招きして祠堂経法要をお勤めしました!

祠堂経は、大誓寺におきましては毎年6月第三土日の恒例法要です。今年度は大阪浄行寺前住職、元布教使課程専任講師(※1)の義本先生にご布教を賜りました。

先生はその道では有名な方で、わざわざ氷見までお越しくださると聞き、他寺院の僧侶・門徒さままでお聴聞に足をお運びくださいました。聞きながら、涙ぐんだり、笑い声をあげたり、うなづく方も見られました。

ご法話では、「善人が集まると互いに衝突する」「死を“不幸„とよぶ。ならば人間は不幸になるために生まれてきたのか」「“そのままのすくい„は“このままのすくい„とは違う」などなど、含蓄に富んだ内容を多くのたとえを用いてやさしく・ありがたくお話しくださいました。

法要が終わり、梅雨晴れのように皆さま晴れ晴れとしたお顔で帰っていかれたのが印象的でした。またお招きしたいと思っておりますので、どなたさまもご参拝くださいませ。(つづく)


※ご法話の内容詳細については次回以降です。

※1、布教使育成にあたる先生です

<補足>今法座のご讃題(※2)
「しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、『正信念仏偈』を作りていはく、無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」


※2、布教冒頭に申し述べる法話の主題。お聖教(経典など)のお言葉を引用する。今回義本師は、親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証 行文類』偈前の文を述べた。

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