
Ahh.., no matter where I am, it is because I am always embraced in Amida’s compassion.
真宗教団連合『法語カレンダー2021年8月』より
「地獄」シリーズ最終回では「地獄」6/7回と今回のご法語をうけて、以下3点のサブテーマを設けて考えております。
1、なぜ私は道の踏み外し、自他を苦しめてしまう(地獄を生きてしまう)のか
2、なぜ道を踏み外した先(地獄)までもが仏の道であるのか
3、なぜ地獄を生きる私がすくわれる(成仏できる)のか
「地獄」7/7(中)編ではサブテーマ2を見てまいりました。後編は最後のサブテーマ3についてです。
3、なぜ地獄の者がすくわれる
まずは前掲のご法語をご覧ください。こちらは本願寺派の僧侶、山本仏骨氏のお言葉です。阿弥陀さまの存在や目的(本願)を知ったところで、それが自身のすくいへと繋がらねば、山本仏骨氏のように死を前にしてご法語のような言葉(※1)は出てまいりません。
ここまで「地獄」シリーズを通して一貫して地獄は私に在ったのだし、鬼は私自身であったと知らされてきました。通常であれば受け入れられない真実を受け止めることができるのは、そのすくわれ難い仏とは真反対の私こそまさしく阿弥陀如来のすくいの対象であった(※2)からです。
死への恐れ、苦しみもまた、もの(永続する自己)への執われの心から来ています。それを断ち切ることなど私にはできませんが、そこにこそ如来のお慈悲が向いているのです。
ここに到って初めて仏骨氏のご法語が味わい深く広がります。。
「まあ、どこにおってもお慈悲の中だからのう」
(「地獄」7/7最終回 おわり)
次回以降の予定
私がすくわれる(苦からの解放)唯一の方法が如来の本願力です。
どうしようもなくものに執われる心に縛られ、欲が途切れることなく湧き出し、愛欲の憎悪に駆られる私がその苦から抜け出すには、自分の他からのお力(本願他力)による他ありません。縛られ身動き取れない私に自らの毒を抜くことなどできるはずもなく、そもそも私のどこを切っても毒しかないのです。
煩悩という毒しかない私の毒を抜くとは?
阿弥陀如来の本願力(他力本願)とはどのようなお力なのか。
次回以降、掘り下げてまいります。
(脚注)
※1、真宗僧侶であった山本仏骨(1910-1991)が死の床にあって遺した一言。仏骨は小学生のころ、世界中で猛威を振るったスペイン風邪で家族すべてを亡くす。親類に預けられた仏骨は学校にも通えず子守をしながら働いた。終戦後、僧侶として滋賀の寺院で働き、その後大阪の寺院へ入寺する。行信教校講師としても働くも依然貧しく、一家六人が生きていくのもやっとだった。「食べる物には苦労しない」といわれた北海道への移住も考えたが、それでは日本仏教の中心地から離れることになってしまう。思案の末に出した結論は「宗乗(自らが信じる仏教教義)を勉強して死ぬんだったらそれでええわ」だった。
ちなみにスペイン風邪(Spanish flu)とは1918-1920頃、全世界で大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称。全世界人口の3割、5億人が感染したとされる。日本においても2380万人あまりが感染し、約39万人が没している。
※2、悪人正機。自らの力で迷いを離れられない者(悪人)こそまさしき(正)めあて(機)の意。真宗教義の柱の一。言及した箇所として『歎異抄』第三条「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」が有名。