住めば地獄!? Wherever I get to live, it’s Naraka.
前回までの8話「地獄」1/7(前)~「地獄」5/7(後)で引用したご法語を通して至った結論は、、
お念仏によって気が付かされる「私」とは“鬼(地獄)„であり“餓鬼„であり“畜生„であった(The Nembutsu, chanting the name of Amida Buddha, makes me know myself as an Ogre, a Preta and also an Animal)
――ということです。
私自身のこころに地獄も餓鬼も畜生もある。言い換えれば私の有り様が鬼であり餓鬼畜生である、と。であるならば、私の行くところ住むところどこであろうと、そこは地獄(餓鬼・畜生)でしかないということにならないでしょうか。

I took the wrong path but came to realize that this, too, is Amida’s path.
真宗教団連合『法語カレンダー2022年2月』より ことば:榎本栄一
踏み外す道とは What the wrong path means
さて、上のご法語の英訳を見ますと、「I took the wrong path(道をふみはずした)」とあります。
ふみはずした「道(path)」が何かはここでは定かではありませんが、一般に“人の道(humanity)„とか“正しい道(justice)„とか“普通の人が行く道(common sense)„としておけば大意は掴めるのではないでしょうか。(※1)
しかし、法語の作者はその道を「ふみはずしましたが」とまず仰います。そこに滲むのは不可(disapproving)、不正(unrighteous)、不善(bad)、非常識(absurd, stupid)、マイノリティ(minority)であるという想いであり、しかも「ふみはずすべきではありませんでしたが(I shouldn’t have taken wrong path but,,,)」ではなく「ふみはずしましたが(I took,,,)」と故意とも採れる表現を用いています。踏み外したのは飽くまで自分の所為であるし、また、結果的に悪くはなかったと観ておられるような印象です。
踏み外さずにはいられない私 Can’t keeping the right paths
“人道(humanity)„、“正しさ(justice)„、“普通„(common sense)といっても、無常無我の真理(※2)を仰ぐまでもなく、永久不滅の定義などありはしません。人、社会、時代が変わればこれら定義もまた変わるからです。したがってこの道に乗り続けられる人などおりません。「普通」の人の道から外れることが普通である(It’s common for anybody to get off the “common” course.)と私は捉えます。(※3)
いずれにしろ、作者だけでなく私もこれらの道を踏み外さずにはいられないのです。そしてそれこそが「私の有り様が鬼であり餓鬼畜生である」(I can’t keep taking the right paths leading to Buddhahood so that means myself as an ogre, a Preta and also an Animal)とつながるのです。
踏み外しようのない道 The path that I can never get off
しかし作者はそっと教えてくださいます。「気がつけばここも仏の道(but came to realize that this, too, is Amida’s path)」だったのだと。踏み外したはずが、そこは阿弥陀仏のおすくいの道であり、同時に私の成仏への道(the path leading to Buddhahood)でもあった。踏み外した先に道が用意されてあるならば、それこそ踏み外しようのない道が仏の道ではないでしょうか(※4)。
文字どおり、一所懸命ふみはずすまいと頑張っていたのが馬鹿らしくなるくらい、「普通」で「正しく」あることが見当違いなことであったと気付かされる、またそうした私たちの価値観を超えて大きく包み込む如来(Amida Buddha encompassing me far beyond human’s values)の大きさに圧倒される、、、そんなご法語に出遇いました。
次の最終回「地獄」7/7では、なぜ阿弥陀如来さまは踏み外した先にすでに道をご用意しておいでだったのか、どうして踏み外してもすくわれるのか、ご法語とともに見てまいります。
(最終回「地獄」7/7へ)
(脚注)
※1、「一般に」と表現したが、作者の意図とは別である。狭義に仏教でいうならば、菩薩(a bodhisattva, who attains or is striving for Buddhahood)など仏を目指す者が善い行いを積み重ねながら歩む“成仏への道„、すなわち聖道(しょうどう the right paths)ととることができる。菩薩は自ら智慧の完成、すなわちさとりを求めるとともに、深い慈悲をもって一切衆生(生きとし生けるもの)をも利益(さとりに導く)しようとする存在。
※2、仏教の根本真理である三法印の二、諸行無常(The doctrine of impermanence for Sankhara, meaning formations)と諸法無我(The doctrine, absence of separate self for sarva-dharma, meaning things.)。諸行無常は因縁によって生まれたものは常に変化し留まることがないこと。諸法無我はあらゆるもの(因縁によるものもよらないものも)に永遠不変の実体は存在しないこと。
※3、聖道(※1参照)と見てもこの厳しい道は、菩薩ならぬ私、すなわち清らかな心を持ちえぬ私には一歩たりとも歩めない。
※4、仏教には自力聖道(難行)と他力浄土(易行)の二つの道があり、聖道は前掲のとおりだが、浄土の道とは阿弥陀如来のおすくいにあずかる道である。私自身の力である自力に対し、如来のお力なので他力という。我が力には自ずと限界があるが、如来のお力は測りえない。