英語で聞法「念仏」3(前)

Although it is me that utters and hears the phrase “Namo Amida Butsu,” actually it is the call of my parent, Amida, promising to guide me to the Pure Land.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年3月』より

前回は “念仏(The Nembutsu)„ について、
1、どう“自己を発見すること(discover yourself)„ につながるのか
2、アミダさまは何と喚びかけて(calling to)いるのか
との問いのうち問1について、 “南無阿弥陀仏{Namu(Namo) Amida Butsu}„ を聞かせていただくことが、本来の自己を発見することにつながる、という私の受け止め(味わい)を述べさせていただきました。

しかしなぜ、ただ私が念仏を称え、それを聞く(utter and hear the phrase “Namo Amida butsu„) ことが自己の発見という大げさとも言えるものにつながるのでしょうか。

そのヒントとなるのが今回の法語です(それが問2の答えともなっています)。
この法語によると、私が称え聞く念仏はそのまま「親のよびごえ」だといいます。
??「親」??なぜ急に家族が出てくるのでしょう。
どこに連れていかれるのでしょうか。

そこで注目すべきはその英訳です。
「親のよびごえ」の部分の英訳をご覧いただくとこの様になっています。
the call of my parent, Amida
親を表す“my parent„と並べて “Amida(阿弥陀)„ と記してあります。このうたの詠み手は、阿弥陀如来さまのことを“親„さまと仰がれているのです。親は、、、

 いのちに換えても子を護り、
 子に憎まれようと正道を歩むことを促し、
 子が転んで泣けば、同じだけ痛みを感じ、
 苦しみ悲しみに寄り添い、
 遊びに夢中になる子が求めるより、
 ずっと前から傍らにおり声をかけつづけ、
 生まれてきてくれただけで十分と慈しみ、
 ともに帰る事ができる喜びに満たされる。

「親」の一文字に万感の想いをこめて、如来のお慈悲を嘆じておられるのです。

{ (後) につづく }

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