We live taking what we have been given for granted but continue to express dissatisfaction.
真宗教団連合『法語カレンダー2022年6月』より
前回(「地獄」4/7(前))、大変貴重ないただき物ですら「ありがとう」とは思わない(taking what we have been given for granted)、どこまでも不足不満をいう(continue to express dissatisfaction)非常識な者が生み出すのは、醜悪な亡者・餓鬼である、というところまでお話しました。
今回はその貪欲(むさぼり、greed)から生まれた鬼、 “餓鬼(ガキ、Preta)„についてです。
食火炭餓鬼(じきかたんがき、Preta eating cremains still burning)
餓鬼は常に飢渇に苦しむ亡者の呼び名であるとともに、強欲のこころを起こした者が趣く苦しみの世界(悪趣・悪道、one of the suffering world in the cycle of karmic reincarnation for one’s greed)でもあります。しかしながら餓鬼は餓鬼道にのみ存在するのではなく人天(人間界Humans・天界Devaloka)にも存在するといいます(※1)。なぜなら餓鬼は、飢えて食物を待つ死者と、欲求不満な人間のすがたを表現(expresses human who is never satisfied with some restrictions)しているからです。
下の絵をご覧ください。
『餓鬼草子(河本家本)』
食火炭餓鬼 -模写-
こちらは餓鬼の一種である食火炭(じきかたん)餓鬼(※2)です。まず火の玉状の物を飲もうとしていることに驚きますが、よく見てみるとそのすがたは骨と皮ばかりでやせ細り、髪は乱れその身は黒ずみ、腹部は山のように大きく膨んでいます。
そして何より注目すべきはその表情です。燃える何とも知れない物を嫌がる様子もなく無表情に(without expression, no joy, no thankfulness)、しかし“いくらでも食べたい„という貪欲さが窺えます。
どうでしょう。喜びも感謝もなさげで、「まだないの?」と言わんばかりのこの表情。まさに「あたりまえだと言うて、まだ不足を言うて生きている」人間、、、ということはつまり餓鬼とは貪欲な私そのもの(Preta means myself with greed )だったようです(前回参照)。
ほとけさまが教えてくださること(続き)
前回の末項目で「ほとけさまが教えてくださること」として「一切において当たり前に存在するものはない(※3)」とご紹介させていただきました。
空気や水、家や親の存在、毎日の食事、そしてこのいのち。。。当たり前に存在していると思っていたものが実はそうではない。この真実に頷かせていただいたならば、出遇うすべてが有難く、貴重で尊く、うれしい(Everything I see mekes me thankful, respectful and happy with Buddhism)のです。
一方で毎日が、与えられた環境が、このいのちすら味気なく「もっと美味いもんないの」と無表情に口を開けて待っている私の餓鬼としてのすがたが、恥ずかしくもあり、もったいなくも感ぜられる(Myself as Preta makes me ashamed and regrettable for wasting so many lives in the cycle of reincarnation)のです。(「地獄」4/7おわり)
(「地獄」5/7へつづく)
※1、源信『往生要集』より、「第二に、餓鬼道を明さば住処に二あり。一は地の下五百由旬にあり。閻魔王界なり。二は人・天の間にあり」。
※2、河本家本は『正法念処経』に依拠しているとされるが、経によれば食火炭餓鬼が食しているのは遺体を火葬する際の燃えた炭である。
※3、詳細は前回脚注参照のこと。