建立の地 – 矢田部 –

矢田部(八田部)

 集落は上矢田部・下矢田部・三田窪の三垣内より成り、三田窪は江戸末期の開拓村である。
 地名の由来は、仁徳天皇(4世紀末~5世紀前半)が皇后の八田(矢田)皇女に御子がいなかったので御名代(※1)として、物部大別連(※2)を八田部造(※3)とし、全国数十か所(※4)に八田部(矢田部)を定めた際に当地にもその部民を置いたことによるものか。
 一説には寿永の戦乱(※5)において大敗した平家の一軍、平盛嗣(※6)が率いた軍の残卒が当地に隠遁し、湿地を開拓し農業を営んだことに始まるとされる。

※1、みなしろ。皇族の名を後世に残すために設けられた部民・田荘のこと
※2、矢田皇女の叔父。第十五代応神天皇の義弟。
※3、やたべのみやつこ。大和朝廷に仕え矢田部を統率した者の姓。
※4、能登国鹿島郡矢田郷矢田村(現在の七尾市中心部南方)も同御名代である。
※5、治承・寿永の乱(源平の戦い。1180年~1185年)
※6、越中守であった平盛俊の子

(参考文献)

  • 『越中志徴』森田柿園
  • 『矢田部ノ神社之私記』枇杷籛太郎
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