英語で聞法「地獄」6/7

住めば地獄!? Wherever I get to live, it’s Naraka.

 前回までの8話「地獄」1/7(前)「地獄」5/7(後)で引用したご法語を通して至った結論は、、

お念仏によって気が付かされる「私」とは“鬼(地獄)„であり“餓鬼„であり“畜生„であった(The Nembutsu, chanting the name of Amida Buddha, makes me know myself as an Ogre, a Preta and also an Animal)

――ということです。

 私自身のこころに地獄も餓鬼も畜生もある。言い換えれば私の有り様が鬼であり餓鬼畜生である、と。であるならば、私の行くところ住むところどこであろうと、そこは地獄(餓鬼・畜生)でしかないということにならないでしょうか。

I took the wrong path but came to realize that this, too, is Amida’s path.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年2月』より ことば:榎本栄一

踏み外す道とは What the wrong path means

 さて、上のご法語の英訳を見ますと、「I took the wrong path(道をふみはずした)」とあります。
 ふみはずした「道(path)」が何かはここでは定かではありませんが、一般に“人の道(humanity)„とか“正しい道(justice)„とか“普通の人が行く道(common sense)„としておけば大意は掴めるのではないでしょうか。(※1)
 
 しかし、法語の作者はその道を「ふみはずしましたが」とまず仰います。そこに滲むのは不可(disapproving)、不正(unrighteous)、不善(bad)、非常識(absurd, stupid)、マイノリティ(minority)であるという想いであり、しかも「ふみはずすべきではありませんでしたが(I shouldn’t have taken wrong path but,,,)」ではなく「ふみはずしましたが(I took,,,)」と故意とも採れる表現を用いています。踏み外したのは飽くまで自分の所為であるし、また、結果的に悪くはなかったと観ておられるような印象です。

踏み外さずにはいられない私 Can’t keeping the right paths

 “人道(humanity)„、“正しさ(justice)„、“普通„(common sense)といっても、無常無我の真理(※2)を仰ぐまでもなく、永久不滅の定義などありはしません。人、社会、時代が変わればこれら定義もまた変わるからです。したがってこの道に乗り続けられる人などおりません。「普通」の人の道から外れることが普通である(It’s common for anybody to get off the “common” course.)と私は捉えます。(※3)

 いずれにしろ、作者だけでなく私もこれらの道を踏み外さずにはいられないのです。そしてそれこそが「私の有り様が鬼であり餓鬼畜生である」(I can’t keep taking the right paths leading to Buddhahood so that means myself as an ogre, a Preta and also an Animal)とつながるのです。

踏み外しようのない道 The path that I can never get off

 しかし作者はそっと教えてくださいます。「気がつけばここも仏の道(but came to realize that this, too, is Amida’s path)」だったのだと。踏み外したはずが、そこは阿弥陀仏のおすくいの道であり、同時に私の成仏への道(the path leading to Buddhahood)でもあった。踏み外した先に道が用意されてあるならば、それこそ踏み外しようのない道が仏の道ではないでしょうか(※4)。

 文字どおり、一所懸命ふみはずすまいと頑張っていたのが馬鹿らしくなるくらい、「普通」で「正しく」あることが見当違いなことであったと気付かされる、またそうした私たちの価値観を超えて大きく包み込む如来(Amida Buddha encompassing me far beyond human’s values)の大きさに圧倒される、、、そんなご法語に出遇いました。

 次の最終回「地獄」7/7では、なぜ阿弥陀如来さまは踏み外した先にすでに道をご用意しておいでだったのか、どうして踏み外してもすくわれるのか、ご法語とともに見てまいります。

(最終回「地獄」7/7へ)

(脚注)
※1、「一般に」と表現したが、作者の意図とは別である。狭義に仏教でいうならば、菩薩(a bodhisattva, who attains or is striving for Buddhahood)など仏を目指す者が善い行いを積み重ねながら歩む“成仏への道„、すなわち聖道(しょうどう the right paths)ととることができる。菩薩は自ら智慧の完成、すなわちさとりを求めるとともに、深い慈悲をもって一切衆生(生きとし生けるもの)をも利益(さとりに導く)しようとする存在。

※2、仏教の根本真理である三法印の二、諸行無常(The doctrine of impermanence for Sankhara, meaning formations)と諸法無我(The doctrine, absence of separate self for sarva-dharma, meaning things.)。諸行無常は因縁によって生まれたものは常に変化し留まることがないこと。諸法無我はあらゆるもの(因縁によるものもよらないものも)に永遠不変の実体は存在しないこと。

※3、聖道(※1参照)と見てもこの厳しい道は、菩薩ならぬ私、すなわち清らかな心を持ちえぬ私には一歩たりとも歩めない。

※4、仏教には自力聖道(難行)と他力浄土(易行)の二つの道があり、聖道は前掲のとおりだが、浄土の道とは阿弥陀如来のおすくいにあずかる道である。私自身の力である自力に対し、如来のお力なので他力という。我が力には自ずと限界があるが、如来のお力は測りえない。

「2025年度 しんらんズ ないと」のご報告

10月18日(土)夜のイベントは盛況の内に幕を閉じました

 当夜はお子さま9名、大人15名のご参加をいただきました。雨脚の強まるなかご参加いただいた皆さま、本当にありがとうございました。

 イベント中のお子たちの熱中ぶり、帰り際の皆さまの笑顔そして、「大人も楽しめました。また声かけて」との親御さんらのお声に意を強くし、早速来年度に向けて計画を練り始めているところです。
 それでは各イベントを分けてご報告いたします。

はじめに‐“勤行(読経)„‐

 まずは、各々自由にペットボトルキャンドルを選び、御堂に進みます。御堂内が色とりどりのキャンドルでいっぱいになり、読経が始まります。すると、皆さまの掌が自然と合わさります

つづいて ‐“献灯„&“焼香„‐

 読経の後、親鸞聖人御影(絵像)の前に設えた献灯台にそれぞれのキャンドルをお供えし、お焼香をします。

 皆さん仏前にうやうやしく首を垂れながらも、ワクワクした柔らかな表情で献灯・焼香をされておいででした。

仏教起源のあそび体験!

 ご紹介する予定のあそびは以下の7つでした。

①じゃんけん②盆おどり③あみだくじ➃とんち⑤縁日⑥坊主めくり⑦物見遊山

 これらの中で皆で体験したのは“とんち„と“アミダくじ„です。

 「とんち」は「頓智」と書き、即時の対応・ウィットに富んだ切り返しをいいます。一休さんのとんち話が有名ですね。ただ今回遊びにしたのは“とんちクイズ„、、、いわゆる“なぞなぞ„です。

「三角形に線を二本たして五角形にするには?」とか、
「お寿司やさんで頼むと値段しかいわれない。何のお寿司を頼んだのか?」とか、
「『大』『中』『 』『小』三つめの漢字は何?」などなど、、

 大人も子どもも一所懸命に考える人もいれば、問題途中からすでに「はは~ん」とばかりにピンときた表情で答えを回答用紙に書き始める人も。。。
 大人こども混合のチーム編成でしたので、ある時はお子さんが自信満々に答え、必要なら大人の方がアドバイスしたり、一緒に悩んだりと皆さん白熱しておいででした

アミダくじ」は古くは中心に向かって集束する放射状の線で表されていたようです。その模様がご本尊阿弥陀如来さまの後光をほうふつとさせるため、アミダくじと呼ばれるようになったのです。

 上の画像をご覧ください。これは参加された皆さんで完成させた巨大アミダくじです。約3m四方あり、48本の直線が中心から引かれています。

 このくじでは、中心に1位~4位に導かれるルートが1つずつあり、対応した賞品を獲得できるというルールでした。
 豪華賞品が当たった方、おめでとうございました!外れた方は次回は当たるといいですね。

 来年度のShinran’s Night もお楽しみに!

「2025年度 しんらんズ ないと」のご案内

10/18(土) 17:00 受付開始!!

「Shinran’s Night しんらんズないと」とは

 浄土真宗のご開山(宗祖)親鸞聖人のご命日(旧暦11/28)を前に、各お寺で執り行われる法要「報恩講(ほうおんこう)」。その夜の初めに勤められるのが「初夜勤行(しょやごんぎょう)」です。

 当寺におきましては2022年、このお初夜のお参りを「Shinran’s Night」と名を変え、より間口を広く、敷居を低く、どなたさまも楽しめるイベントを中心に構成しなおしました。より多くの皆さまにお寺を通じ、み教えや仏さまとのご縁が結ばれるように念じて。
 Shinran’s NIght は、今年で4年目となります。

幻想的なキャンドルの灯火

 秋も深まる10月第三土曜の夕べ。
 澄み渡っていた空があっという間に暮色に染まって行く。
 弱々しかったキャンドルの灯火は、黄昏を待ちかねるかのように存在感を強め。。。

 キャンドルを手にすると、暗闇を灯す火の明るさと温かさからか、皆さんのお顔は一様に和らぎ、自然と笑顔がこぼれます。

 キャンドルを手にお勤め(読経)し、親鸞聖人の御影(絵像)に献灯する、イベントの端緒を飾ります。

あそんで賞品ゲット!

 例年メインとなるイベント(遊び、ワークショップ)をご用意しております。今年度は「仏教起源のあそび」です。詳細は当日お越しになってのお楽しみですが、いくつかある内、少しだけご紹介しましょう。

じゃんけん

「さいしょはグー。じゃんけん、ぽい!」
 子どもが集まれば一度は聞こえる元気な掛け声。おなじみの公平に勝ち負けを決める遊びです。これが仏教となんの関係が。。。!?

あみだくじ

 あみだくじ。。「アミダ」くじ。
 ご本尊、阿弥陀如来さまの「阿弥陀」と同じ読みですが、「阿弥陀」にはどういった意味があるのでしょうか。そしてそれと「あみだくじ」とどうつながるのか!?

 以上、ほんの少しだけでしたがご紹介いたしました。まだまだ楽しい遊びをご用意しておりますので、大人のかたもお子さまもどなたさまも、どうぞ足をお運びください。

夏休みイベント「英語でクラフト」のご報告

8/23(土)『英語でクラフト』を開催しました

 この日は、氷見では夏休み最後の週末となるにもかかわらず、6組14名のご家族がお出でになりました。アメリカご出身のダニエルさんご講師のもと、下は年中さんから上はそのおばあちゃん世代の方まで楽しく英語を学びつつ、わらかご作りを楽しみました。

たのしく英語にふれる

 イベント冒頭にダニエルさんより「What kind of container do you know?(どんな種類の容器がある)」との問いかけを皮切りに、様々な容器をその用途(purpose)や素材(material)とともに紹介されました。ダニエルさんを囲み、小学生のお子さんたちを中心に英語と日本語が飛び交い、ワイワイガヤガヤと皆さん容器のあれこれに話がはずみました。


 ちなみにこのような容器が紹介されました。
・竹かご(a bamboo basket)(運搬用)<竹製>
・たらい(a tub)(運搬用)<プラスチック製>
・ガラス容器(a glass box)(保存用)<ガラス製>
・重箱(a wooden box)(食器)<木製>
・リュックサック(a cloth bag)(運搬用)<布製>
・ナイロン袋(a plastic bag)(運搬用)<プラスチック製>
・紙袋(a paper bag)(運搬用)<紙製>
・タッパー(a tupperware)(保存用)<プラスチック製>

作りごたえ満点!わらかご作り

 つづいて、ワークショップ「わらかご作り」です。わらかごは、お米ができる稲を脱穀したのちの茎と葉(葉鞘・葉身・稈)だけでできるかごで、稲の伝来より作り続けられている伝統的なわら細工の一つです。

 接着剤、粘着テープ、ビニール紐など現代の技術による便利な製品や機械は利用せず、旧来の手作業で、わらを差し、ねじり、編み込むだけで作ります。そのため一度聴くだけでは理解できないほど複雑な編み込み手順と緩まないための力が必要です。
 それでもお子さんは諦めず、パパママの力を借りながら、大人の皆さんは額に玉の汗を浮かべながらもそれぞれのかごを完成させました。それが一番上の写真で皆さんが手にするわらかごです。

じかに触れ自ら作り上げた喜び

 今回のイベントが始まる前、実はチラシを見た方から「わらかごなんて何に使うの」とイベント内容に対し、少し懐疑的なご意見をいただいてもおりました。
 しかしながら、当日かご作りをするお子さまの真剣な表情と工夫とチャレンジ精神、大人の皆さまの熱中ぶりと「何としても形にする」という意地を拝見するにつけ、成果物以上にその過程において想定以上に充実したイベントだったと思います。

 聴くだけの講義やテレビ・動画視聴では得られない濃い体験ができた夏休みのイベントでした。

 既に次のイベントに向け、ダニエルさんのHanabee英会話さんと話し合いを進めております。
 参加された方々は次回もお楽しみに。参加できなかった方は次回のご参加お待ちしております!

夏休みイベント「英語でクラフト」のご案内

8月23日(土) おとなも子どもも

令和7年度の大誓寺夏休みイベントのご案内です。

 対象は大人も小人(幼児のお子さまは保護者同伴)も、ご門徒さまもそうでない方も、氷見にお住まいでもそうでない方も。教わりながら楽しくワラかごを作ります。まずはチラシの宛先にてお申込みください。(申込み・問合せは大誓寺でも可)

会場は大誓寺本堂(空調あり)。定員20名。

参加費はお一人500円です。当日ダニエルさんにお支払いください。

かご作りを教えてくれるのはダニエルさん。氷見市在住のアメリカ人のかたです。

Hanabee英会話 ダニエルさん紹介

 アメリカのカリフォルニア出身。2019年に日本に移住し、2024年まで七尾市の小学校で英語教師を勤める。現在は英語塾「Hanabee英会話」を運営・講師を勤めるかたわら養蜂を営みハチミツを販売している。夢は子どもたちに科学と自然への興味を育む「学童を作り、ミツバチたちの蜜の楽園を設け」ること、とのことです。

寺子屋大誓寺の第二のかたち

 私たちのお寺では令和3年より「寺子屋大誓寺(※)」という活動に取り組んでいます。「より開かれたお寺」は、サービスを受ける側だけでなく、する側も流動するべきというのが当寺の考えです。
 これまで(令和7年現在)寺子屋の講師はお寺の住職などいわゆるお寺の人間が行ってきました(第一形態)が、今回の夏休みイベントで初めて寺外部のかたが講師役となります(第二形態)。将来的には授業内容の企画・運営にも携わっていただく(第三形態以降)ようになることが理想です。

 まずは今回のイベントチラシをご覧になり、お問い合わせ・お申込みください!

脚注)
※大誓寺が行う公益活動の一つ。お寺での学びと健やかな育成を通じて、よりどなたにも開かれたお寺を目指す非営利目的の活動。

令和7年度祠堂経のご報告

去る6/21(土)22(日)の両日、宇波の段證師をお迎えして祠堂経法要をおつとめしました。

段證(だんしょう)武邦師

 今年度ご招待の布教使さまは氷見市宇波の常尊寺住職の段證武邦師です。
 段證師は高岡教区教務所の定例法座やラジオ法話でご活躍のベテラン布教使であり、当寺でも度々ご依頼させていただいています。
 ちなみに当寺住職とは父同士が従兄弟という間柄です。

ご法話

 師には2座お話いただきました。初日前半は去年の能登半島大地震におけるご自身の体験について述べられました。

 段證師が住職をされているお寺「常尊寺」は氷見で最大級の被害に遇われた内の一寺院で、いまだに復旧のめど立たず倒壊の危険があり出入りすることが出来ません。鐘楼堂も危うく土台から倒壊するところだったようですが、すんでのところで総代さんがたのお陰もあり危機を免れたそうです。
 そんな中、はやくも地震直後の親鸞聖人御正忌報恩講からは庫裏を仮本堂としてお勤めを行っておいでということで頭が下がります。

 しかし、近隣のご住職が急逝したり住職継職したばかりの災害に遇ったりと、続く災難に師も悩み考えさせられたそうです。

 そんな人の生の苦悩のなかにこそ、はたらくのがお仏法です。

良寛和尚のおことば

 後半、その災害・災難を承け、師が「出遇っていて良かったな」と思えた良寛和尚のお言葉を引いて、こころの持ちようをお話くださいました。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

 上のお言葉は良寛和尚が子を亡くした友人に宛てた手紙の一節です。

 どんなに手を尽くしても災難に遇うときは遇う。死はもちろんのこと免れ得ない。といって、私(良寛)のように長生きすればそれだけこのような(子を亡くした親の悲しみを見ることのような)憂き目にあい続けねばならない。良いも悪いもない、あるがままと心得る、それこそ災難を逃れる良い方法だよ、と教えてくださる金言です。

 災害もますます増え、世界のあちこちで戦争・紛争が絶えず、恐ろしい事件・事故にいつ遇ってもおかしくない中、「聞いていて良かったな」と思えるお言葉です。(終わり)

令和7年度祠堂経のご案内

6/21(土),6/22(日)の二座お勤めします

日時のご案内

6/21(土) 14:00~(16:00終了)一座、法話二席
6/22(日) 9:00~(11:00終了) 同上

会場

大誓寺本堂(お好きな席にお座りください)

お布施(自由)

ご懇志をいただける方は本堂後方の受付までお越しください
(係のご門徒さまに対応いただいております)

行事内容

お勤め(読経):正信念仏偈 
※お経本は本堂前方に置いてあります

法話
布教使:宇波 常尊寺住職 段證武邦師

祠堂経とは

 祠堂経は、大誓寺におきましては毎年6月第三土日の恒例法要です。
 かつては祠堂志(※1)をお納めいただいた方のお披露目をしたり、お寺によっては過去1年で亡くなった方の物故者法要を兼ねて修行されているようですが、当寺では現在、ともにお仏法を聞くことができる慶びを再確認する場となっております。

 亡き方を想い、また同様に近しい方を亡くされた方々や、同じく仏とならせていただくお念仏の仲間(御同行)とともに笑い、涙し、掌を合わせましょう。
 どうぞどなたさまもご参拝くださいませ。(以上)

<注釈>
※1、永代にわたり祠や御堂を維持し礼拝の対象を護持し、後世へ伝えていくためのご懇志。かつては祠堂銭といったようです。

躑躅(ツツジ)が語るは

ヒラドツツジ

学名:Rhododendron ✕ pulchrum
和名:ヒラドツツジ(平戸躑躅)

分類:ツツジ目ツツジツツジ
分布:日本全国
花期:4月‐5月
長崎県平戸に由来するツツジの交雑種である。冬でも枝先の葉が残る半常緑低木。大輪で美しい花を咲かせる。樹高が100cm~300cmと比較的高く地際から密に生えるため、庭木のほか生け垣、街路樹にも利用され親しまれている。

立ち止まりたくなる美花

 4月頃から生命力いっぱいの若芽や花が至る所に見られるようになりましたが、5月に入り境内でにわかに目を惹くようになったのがツツジです。 

 ツツジはアジア各地に自生し、古来日本においても寺院や武家屋敷などに植えられ親しまれてきたようです。平戸の地は遣隋使派遣の時代からの海上交通の拠点でしたから、自然と海外や日本各地から多品種のツツジが持ち込まれ交雑交配が進み、ヒラドツツジは現在のような密に枝葉が茂り、大輪の美しい花を咲かせる品種となりました。

 その美花ぶりは名前にも表れています。
 属名 “Rhododendron” の “rhodon” は古代ギリシア語で「バラ」、”dendron” は同様に「樹木」の意。種小名 “pulchrum” はラテン語で「美しい」を意味します。

 さらに漢名で書くと “躑躅” ですが、”躑(てき)” も”躅(ちょく)” もどちらも「行き悩む」「行きつ戻りつする」の意味があります。諸説あるものの、花が美しく目を惹くため、足を止める人が多かったことに由来するようです。別の用事に早めていた足がふとその美しさに立ち止まり、戻りさえする、、、ツツジが全国各地にひろまったことにも深く頷けます。

美意識は土壌、執着はタネ

 上記の「躑」「躅」の意味で「行き悩む」とあります。なるほど、美を見出すことは喜びでもあり悩みでもあるのですね。美に限らず価値ありとするほど、そして、より儚いものほど見る人の悩ましさは強くなるのではないでしょうか。
 たとえば、各季節、ツツジの花、サクラの花、夏の蝉(セミ)、カゲロウ(成虫としての一生)、シャボン玉、そしてヒトの一生。。。

 お釈迦さまならば「執われてはいけない」と仰せになるでしょう。

 悩み(苦果)を産み出す土壌(美意識)は持っていても、執着というタネ(苦因)をまいてはいけない、その事を満開のヒラドツツジを通して語りかけてくださいます。

花びらは散っても花は散らない

 では美しい花を愛でるな、と仰せなのでしょうか。

 そうではありません

 浄土真宗の僧侶であった金子大榮師の法語に、
花びらは散っても花は散らない 形は滅びても人は死なぬ
というものがあります。
 私が美しさを感じているツツジは主に花びら満開のツツジです。しかし花びらを付ける前には蕾(つぼみ)があり、花びらが散った後は次の花芽や果実ができ、緑豊かな葉が生い茂るのです。花びらは散ってもなお生き、花のいのちは繋がれていく。

 花咲く時期も、新緑の時期も、結実の時期も、そして落葉の時期も、一瞬一瞬がすばらしい。それは人のいのちも、きっと。(終わり)

英語で聞法「地獄」5/7(後)

 前回(「地獄」5/7 前編)では「執着(adhere to, seize)」の仏教的な概念に触れた上で、ご法語の意味するところは、人の浅ましいほどの自己中心性(selfishness)だというところまで申し上げました。

It is the self among all things that we most adhere to.
真宗教団連合『法語カレンダー2020年6月』より

源信 著『往生要集』

 平安中期の天台僧、源信和尚(恵心僧都942-1017)に主著『往生要集(The Essentials of Rebirth in the Pure Land)』がありますが、このお書物によって近代日本人の浄土観・地獄観(Modern Japanese view of Pure Land and Naraka)が形作られたと言えます。例えば「地獄(Naraka)」「極楽(Pure Land of Amida Buddha)」「お迎え(※1)」「阿鼻叫喚(※2)」「ちくしょう(Animal)」「ガキ(Preta)」これらの言葉も現在では広く社会に浸透しています。
 本書の概要はまず、人が輪廻し趣く苦しみの世界(Six Path in the Cycle of Rebirth)である地獄・餓鬼・畜生・修羅(World of Asura the antideva)・人・天(World of Deva the celestial beings)の六道を紹介し“厭離穢土”(濁りきった世を厭い離れること Loathing the Defiled Realm)を唱え、次に“欣求浄土”(阿弥陀仏の世界である極楽浄土への往生を願い求めること Seeking the Pure Land)を十種の楽(喜び Ten Bliss)とともに訴えたうえで、末世の往生のために念仏を勧める(Instructing all being to practice Nembutsu for salvation within the time of declining dharma)という流れです。

 源信和尚は“地獄は我々自身のすがた”と観た天台地獄観(※3)をうけてこの書を著されました。地獄と同様に畜生を含め他の五悪趣にも厭うべき現世の人のすがたを見られたとしても何ら不思議はありません。

畜生(畜生趣、畜生道)

 では畜生(Animals)とはどの様な存在なのでしょうか。前掲の『往生要集』より抜粋すると、、

 第三に、畜生道を明さば(中略)三十四億の種類あれども、惣じて論ずれば三を出でず。一には禽類、二には獣類、三には虫類なり。

 畜生とは要は自然界にいくらでも見かける動物、鳥、虫たちのことのようです。もう少し見てみますと、、

 かくの如き等の類、強弱相害す。もしは飲み、もしは食ひ、いまだ曾て暫くも安らかならず。昼夜の中に常に怖懼を懐けり。

 これら畜生のすることといえば、互いに害し合うか、飲むか食うだけであり、不安と恐怖を抱かぬ時はひと時もない、とお示しになります。

振り返るわが身は

 前回ご法語について述べました、「何よりも執着せんとするものは自己」の「何よりも」は他者も含めてのことと理解されると。どこまでも自己にのみ執着せんとする者は、他者を押し退け、休むことなく自分に都合の良いものを貪るものと言えはしないでしょうか。まさに仏教の戒める自己中心性です。

 ここでわが身を振り返ると、家族と過ごすとき、街を歩くとき、車に乗っているとき、買い物をするとき、人前に出るとき、会話するとき。予定を立てるとき。。枚挙に暇なく、生きてきた過去すべて、いずれもそこに自己がない場合はありません。「他人のため」「社会のため」というときでさえ、“認められたい”と欲する私が中心にいます。
 

結局のところ、、

 振り返るわが身は、他のいのちを押し退け貪るばかりの畜生そのもの(It is shown myself that I’ve been Animal only devouring all other lives)でもあったようです。

「地獄」6/7につづく)

(脚注)
※1、聖衆来迎(しょうじゅらいこう Welcoming approach)。往生浄土を願う人の臨終に、阿弥陀仏が菩薩、聖衆を率いて迎えに来ること。但し、他力念仏(阿弥陀仏を頼り念仏申す)の人は阿弥陀仏の摂取(一旦すくい取ったなら決して捨てない)の利益によって、信心(阿弥陀仏を頼りとする心)をいただいて後より往生に至るまで常に仏・菩薩の来迎にあずかり護られるとされる。

※2、八大地獄のうち、第八の阿鼻地獄(Avici)と第四の叫喚地獄(Outcry Naraka)のこと。獄卒による不断の尋常でない責め苦により、地獄に堕ちた者の口から絶え間なく発せられる絶叫のような苦痛の叫びを表す。

※3、参考文献『往生要集を読む』中村 元 

英語で聞法「地獄」5/7(前)

 前回(「地獄」4/7(後))もう一つの地獄(Another Path in pain)のかたちとして、感謝を一切覚えずどこまでも不足不満(Neither thankful nor satisfied)を訴える貪欲(greed)から生まれた “餓鬼(Preta)„についてお話しました。
 今回、まずは下のご法語をご覧ください。

It is the self among all things that we most adhere to.
真宗教団連合『法語カレンダー2020年6月』より

 「地獄」3/7では、黒縄地獄に堕ちる原因は人の執着する心(the intention to seize(※1) things)にあるとご紹介しました。そして何より執着するのが自分自身に対して(the self that we most adhere to(※1))であると、このご法語でお示しです。

執着(しゅうじゃく)

 仏教では“しゅうじゃく”と読み、一般的にいう “執着(しゅうちゃく)”とほとんど同義で、ものに強くとらわれることをいいます。執着は仏・菩薩ならぬ者が縁起の法(※2)に昏く(※3)、無我(※4)をさとらないために為す行いであり、執着には常に失う不安や失った悲しみ・憎悪といった苦しみが伴います。
 そのため仏教では執着することを止め、欲心を手放すことを勧めます。「少欲知足(よくすくなくしてたるをしる)」というように、既に与えられたもの、そして出遭う全てが有難く、貴重で尊いのだと知ることの大切さを教えて下さる(前回参照)のです。

互いに害し合う浅ましきは

 「何よりも執着せんとするものが自己」。。他者も含めて何よりもということでしょう。であれば、人が自己中心的(selfish)であることを換言したものです。各々の自己中心性ゆえに互いに他者に譲ることをせず、占有できないとなれば腹を立て争い、命さえ奪い合う。。

 平安時代中期の高僧、源信和尚はその著書『往生要集』において、こうした浅ましい存在として「畜生(Animals )(※5)」を挙げておいでです。。。が、今回はここまで。次回に詳しく述べたいと思います。

 次回後編は地獄・餓鬼とともに代表的な苦しみの世界、三悪趣の一つ「畜生趣(the world of animals)」を紹介します。

「地獄」5/7(後)につづく)

(脚注)
※1、adhere to とともに“執着”の英訳。seizeは「取り上げる」「占有する」の意であり、adhere to は「接着する」「(ルールなど)則って離れない」の意。“執着”が対象物を占有したいという我が欲心の現われであり、狙い定めて離れぬ粘着性も有することを鑑みるとどちらの訳も妥当である。

※2、因果の道理(the doctrine of Nidana)のこと。釈尊がお悟りになったこの世の真理。一切の物・現象は直接原因である「因」と間接原因である「縁」によって成り立っており、因縁が生滅・変化すればその結果である物・現象もまた生滅・変化する

※3、真理に昏いことを愚痴または無明、おろかさという。サンスクリット・パーリ語でMoha。代表的な煩悩である貪欲・瞋恚とともに三毒と呼ばれる。根本的な煩悩である。

※4、①すべてのものには実体がないこと。仏教の根本真理“三法印”の一。The doctrine of no-self. Nothing exists with no changing or parmanent self②自我に対する執着(我執)が無いこと

※5、サンスクリットでtiryanc(ティルヤンチュ)。詳細は次回述べる

Copyright © 浄土真宗本願寺派 大誓寺 All Rights Reserved.