英語で聞法「地獄」7/7(中)

Ahh.., no matter where I am, it is because I am always embraced in Amida’s compassion.

真宗教団連合『法語カレンダー2021年8月』より

「地獄」最終回 中編

「地獄」シリーズ最終回では「地獄」6/7回と今回のご法語をうけて、以下3点のサブテーマを設けて考えております。
 1、なぜ私は道の踏み外し、自他を苦しめてしまう(地獄を生きてしまう)のか
 2、なぜ道を踏み外した先(地獄)までもが仏の道であるのか
 3、なぜ地獄を生きる私がすくわれる(成仏できる)のか

 「地獄」7/7(前)編では阿修羅王の物語(The story of Joshin the asurendra)を例に、サブテーマ1を見てまいりました。(中)編はサブテーマ2および補足として“阿修羅王のその後(A sequel to the story of the asurendra)„についてです。

2、なぜ地獄までも仏の道

 なぜ踏み外した道の先まで仏の道なのでしょうか。それは阿弥陀如来という仏さまが「生きとし生けるものすべてをすくう(※1)(save all sentient beings)」智慧(prajna)と大慈悲(the unobstructed compassion)を備えた仏さまだからです。別の表現をすれば、「限りなき光と命のほとけ(※2)(The buddha with measureless light and life)」さまだからです。
 道を踏み外さずにはおれない存在(鬼、畜生、餓鬼、修羅)がおり、それらをすくうには、阿弥陀如来は誰ひとり取りこぼさない大慈悲を備えた仏である必要があり、またたとえ地獄であっても照らす光と、たとえ釈尊のような仏がおられない時代であったとしても存在しつづける寿命を持った仏でなければならなかったのです。
 

補足

後日談‐浄心阿修羅王のすくい‐
(A sequel to the story of Joshin)

 前回お話した阿修羅王もまた道を踏み外しました。しかし踏み外した先もまた仏の道であるならば、憎悪に駆られ闘争に生きる阿修羅王もまた依然阿弥陀如来の光明に包まれていた、ということを意味します。

 もはや闘争こそが生きる目的と化してしまったような阿修羅が、自らを省み、その心の執われに気づき、自縄自縛から解き放たれることはあり得るのでしょうか

 ここで注目したいのは『仏説阿弥陀経』流通分(最後の部分)です。ここでは序分(冒頭)に加えて釈尊の説法を聞いた人々に言及されるのですが、何と阿修羅も聴衆の一人として説法の場にいたのです。

 舍利弗 及諸比丘 一切世間 天人阿修羅等 聞佛所說 歡喜信受 作禮而去

 阿弥陀経で釈尊は阿弥陀仏がどのようなみ仏でいらっしゃるか、また極楽とはどのような世界であるか、名号(南無阿弥陀仏) を聞き往生成仏することのいかに大切であるかを説かれます。

 仏を敬い、この説法を聞き信じて(信受)喜んだ(歓喜)者は、即時に迷いの因縁が断たれ、阿弥陀如来のすくい取って決して捨てぬ力によって往生成仏することが決定します。であるからには聞法した阿修羅王もまた仏と成ったはずです。。

 阿修羅王は阿弥陀如来のおすくいに遇い、終わりなき闘争の因縁を完全に断ち切られたのです

((「地獄」7/7(後)に続く)

(脚注)

※1、本願 The Primal Vow(『仏説無量寿経 The Amitayus Sutra』阿弥陀仏の四十八願 Amida Buddha’s great forty-eight vows、特に第18願 The eighteenth vow)に誓われたすくいの目当てたる「十方衆生 All sentient living beings」に示されている。阿弥陀仏は本願に「それが完成しなければ仏にならない」という誓い The vows to be fulfilledを伴っているため、すでに十劫の昔に仏と成られていることから and he attained Buddhahood ten cosmic ages ago、「十方衆生」がすくわれることは決定している meaning that all sentient beings going to be saved、という結論となる。

※2、『仏説阿弥陀経 The Amitabha Sutra』に「彼仏光明無量 照十方国 無所障碍 是故号為阿弥陀 又舎利弗 彼仏寿命 及其人民 無料無辺 阿僧祇劫 故名阿弥陀(その仏の光明には限りがなく The buddha has amitabha the measureless light、すべての国々を照らして何ものにもさまたげられることがない。それで阿弥陀と申しあげるのである。また舎利弗よ、その仏の寿命とその国の人々の寿命もともに限りがなく The buddha has amitayus the measureless life、実にはかり知れないほど長い。それで阿弥陀と申しあげるのである So we call him Amida)」とある。

英語で聞法「地獄」7/7(前)

Ahh.., no matter where I am, it is because I am always embraced in Amida’s compassion.

真宗教団連合『法語カレンダー2021年8月』より

「地獄」最終回 前編

 とうとう英語で聞法「地獄」シリーズ最終回の(前)編となります。
 前回「地獄」6/7では私の有り様がそのまま“地獄„(Wherever I live, it’s Naraka)なのであり、私は道を踏み外さずにいられない(I took the wrong path)が、しかしそこもまた「仏の道」(realize that this, too, is Amida’s path)であった、とご紹介いたしました。
 最終回は。。
 1、なぜ私は道の踏み外し、自他を苦しめてしまう(地獄を生きてしまう)のか
 2、なぜ道を踏み外した先(地獄)までもが仏の道であるのか
 3、なぜ地獄を生きる私がすくわれる(成仏できる)のか
これらサブテーマに沿って考えてみたいと思います。

1、なぜ地獄を生きてしまう

 この問いはなぜ苦しみ(suffering)が有るのか、なぜ悪い行い(karma the action leads to suffering)をしてしまうのかと言い換えることができます。苦や苦しみを伴う悪行(道の踏み外し)はどこから来るか。。

 それは私の愚かさ(※1)からやって来ます。愚かさ(ignorance, unseeing)とは「ものをとらえる心に縛られる(「地獄」3/7)」It is the intention to seize material that ties me down )ことです。

 以下、憎悪(hatred, aversion)と果てなき闘争(everlasting war)の世界、阿修羅(界)(Asura the antideva)という苦しみがなぜ生まれたのかを通して見てみましょう。

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■浄心阿修羅王の物語
(The story of Joshin the asurendra)

 ときは釈尊在世の昔よりさらに遡る。天界に、後に修羅界の王となる天(神)がいた。その天は正義を司り、忉利天の主である帝釈天(インドラ)に仕えていた。彼には娘がおり、名を舎脂(シャチ―)といった。彼は大事な娘であるシャチーを、天部(神々)の尊敬を集める帝釈天に嫁がせたいと思っていた。
 ある時、帝釈天の目に留まった一人の美しい娘がいた。それがシャチーだった。それ自体は父である天にも好もしいことだったが、帝釈天はあろうことかシャチーを無理に凌辱してしまった。これには父である天も激怒したが、もしここで帝釈天が反省し、娘を返したならば後の天部を巻き込む戦争
にまでは発展しなかったかもしれない。しかしそうはならなかった。なんと犯された当のシャチーが相手の帝釈天を愛してしまったのだった。
 我が娘はもはや帰ってはこない。父はその愛情ゆえに、また自らの正義を貫くために、収まることのない憎悪に駆られ、己が眷属を率いて修羅界を形成し帝釈天に弓引く。終わることのない戦いが始まる。闘争の神、浄心阿修羅王の誕生である。

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“愛„と“正しさ„という陥穽

 いかがでしょうか。阿修羅王は正義の神。しかしその正義の行動もものへの執われゆえに自らと他を傷つけ苦しめる悪行(道の踏み外し)となってしまっています。つまり娘との間の愛情が変わりなく在ると信じ、自分が依って立つ正義を確たるものと疑わないために、当人に怒りを収める理由がないのです。
 仮にその因果を理解したとしても、父の立場で娘を愛することを止めることなどできないでしょう。また自分の住む世界や自らが信じる正しさのために義憤を起こし行動することが悪いなどとどうしても思えないのではないでしょうか。
 この陥穽にいったい誰が気付くことができるでしょうか。

(「地獄」7/7(中)へ続く)

(脚注)
※1、三毒の一、愚痴。unseeing。ほかに貪欲(とんよく greed)と瞋恚(しんに hatred)がある。貪欲とは「あたりまえだと言うて、まだ不足を言うて(「地獄」4/7」)いるような欲しがる心であり、瞋恚はものをとらえる心に縛られた結果生じる失うことへ反発し怒る心のこと。

は(葉)のいろにほへと

イロハモミジ

学名:Acer palmatum Thunb
和名:イロハモミジ、イロハカエデ、タカオカエデ、コハモミジ

分類:ムクロジカエデ
分布:日本では福島県以南

花期:4、5月両性花(雌雄同株)。
果実:翼果(プロペラ状の羽)
葉:幅3~7cm で5~7裂する。不揃いの二重鋸歯があり、秋10~12月にかけて黄褐色から橙色、紅色へと紅葉したのち散る。

日本で最もよく見られるカエデ属の種でもみじの代表種。
画像のもみじは当寺境内に約5年前に植樹した若木である。

橙色の一叢(ひとむら)

 11月中旬。立冬を経て季節は冬に入ったころ、当寺中庭のもみじも燃えるような橙色に色づきました。同じ境内でも日当たりの良い場所のもみじは既に紅葉していたにもかかわらず、11月に入ってもこのもみじだけは緑色の葉をこんもりと付けていました。それが霜月も10日を過ぎてようやく。
 向寒の候、静謐な庭に一叢の温かみが目を惹きます。

紅葉の仕組み

 一般に紅葉する植物(※1)は、日当たり・寒暖差湿度によって紅葉の色と鮮やかさが変わってくるそうですが、どのような仕組みで紅葉するかご存じでしょうか。

 もみじは秋になって日照時間が減り気温が下がると、
①葉緑素が作られなくなり、元々持っていた黄色のカロテノイド色素だけが残る(黄葉)
②葉に溜め込まれた糖分と日光とが化学反応し赤色のアントシアニン色素が作られる
(紅葉)

 ということは、当寺の余りに黄味が勝ったイロハモミジは日照が足りていないのでしょうか。

 秋の紅葉は申すまでもなく、一年の間に視野をひろげてみても、新芽が生まれ、緑の葉が茂り、花を咲かせ、果実を結び、紅葉を通じて葉を落とす。なんと目まぐるしい変化でしょうか。
 古来、人々が花のいろや紅葉・落葉に世の無常を重ね、典籍や詩そして詠歌によって歎じてきたのも深く頷けます。

いろは歌

 “イロハモミジ”。。。その名の由来は「葉が5-7つに深く切れ込んでいるため、子供たちがその先端を『い、ろ、は、に、ほ、へ、と(※2)』と数えたから」とか、「『(山々を彩る)色は(といえば)もみじ』といったから」とか諸説あるようです。

 それにしても無常がぴったりのこのもみじに「いろは歌」を採用したのは、本当にただの子供たちだったのでしょうか。それほどに、もみじといろは歌との出会いには深い洞察と仏教的な素養の介在を感じずにはいられません。(終)

(脚注)
※1、 一方の紅葉しない葉は、葉緑素が抜けると葉に含まれるタンニン系の物質が残り、カロテノイドやアントシアニンがあったとしても比較的微量のため、褐葉(茶色い葉)となる。

※2、いろは歌とは、47文字の仮名を重複させずに作られた韻文。作者不明。制作時期は10世紀末から11世紀半ばとされる。後世、手習いの手本として流布した。
 全文と現代語訳は以下のとおり。
(全文)
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔ひもせず

(現代語訳)
匂いたつような色の花も散ってしまうものを、
この世で誰が不変でいられよう。
いま奥深い山のような無常の世を超越し、
儚い夢をみたり、酔いに耽ったりもすまい

英語で聞法「地獄」6/7

住めば地獄!? Wherever I get to live, it’s Naraka.

 前回までの8話「地獄」1/7(前)「地獄」5/7(後)で引用したご法語を通して至った結論は、、

お念仏によって気が付かされる「私」とは“鬼(地獄)„であり“餓鬼„であり“畜生„であった(The Nembutsu, chanting the name of Amida Buddha, makes me know myself as an Ogre, a Preta and also an Animal)

――ということです。

 私自身のこころに地獄も餓鬼も畜生もある。言い換えれば私の有り様が鬼であり餓鬼畜生である、と。であるならば、私の行くところ住むところどこであろうと、そこは地獄(餓鬼・畜生)でしかないということにならないでしょうか。

I took the wrong path but came to realize that this, too, is Amida’s path.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年2月』より ことば:榎本栄一

踏み外す道とは What the wrong path means

 さて、上のご法語の英訳を見ますと、「I took the wrong path(道をふみはずした)」とあります。
 ふみはずした「道(path)」が何かはここでは定かではありませんが、一般に“人の道(humanity)„とか“正しい道(justice)„とか“普通の人が行く道(common sense)„としておけば大意は掴めるのではないでしょうか。(※1)
 
 しかし、法語の作者はその道を「ふみはずしましたが」とまず仰います。そこに滲むのは不可(disapproving)、不正(unrighteous)、不善(bad)、非常識(absurd, stupid)、マイノリティ(minority)であるという想いであり、しかも「ふみはずすべきではありませんでしたが(I shouldn’t have taken wrong path but,,,)」ではなく「ふみはずしましたが(I took,,,)」と故意とも採れる表現を用いています。踏み外したのは飽くまで自分の所為であるし、また、結果的に悪くはなかったと観ておられるような印象です。

踏み外さずにはいられない私 Can’t keeping the right paths

 “人道(humanity)„、“正しさ(justice)„、“普通„(common sense)といっても、無常無我の真理(※2)を仰ぐまでもなく、永久不滅の定義などありはしません。人、社会、時代が変わればこれら定義もまた変わるからです。したがってこの道に乗り続けられる人などおりません。「普通」の人の道から外れることが普通である(It’s common for anybody to get off the “common” course.)と私は捉えます。(※3)

 いずれにしろ、作者だけでなく私もこれらの道を踏み外さずにはいられないのです。そしてそれこそが「私の有り様が鬼であり餓鬼畜生である」(I can’t keep taking the right paths leading to Buddhahood so that means myself as an ogre, a Preta and also an Animal)とつながるのです。

踏み外しようのない道 The path that I can never get off

 しかし作者はそっと教えてくださいます。「気がつけばここも仏の道(but came to realize that this, too, is Amida’s path)」だったのだと。踏み外したはずが、そこは阿弥陀仏のおすくいの道であり、同時に私の成仏への道(the path leading to Buddhahood)でもあった。踏み外した先に道が用意されてあるならば、それこそ踏み外しようのない道が仏の道ではないでしょうか(※4)。

 文字どおり、一所懸命ふみはずすまいと頑張っていたのが馬鹿らしくなるくらい、「普通」で「正しく」あることが見当違いなことであったと気付かされる、またそうした私たちの価値観を超えて大きく包み込む如来(Amida Buddha encompassing me far beyond human’s values)の大きさに圧倒される、、、そんなご法語に出遇いました。

 次の最終回「地獄」7/7では、なぜ阿弥陀如来さまは踏み外した先にすでに道をご用意しておいでだったのか、どうして踏み外してもすくわれるのか、ご法語とともに見てまいります。

(最終回「地獄」7/7へ)

(脚注)
※1、「一般に」と表現したが、作者の意図とは別である。狭義に仏教でいうならば、菩薩(a bodhisattva, who attains or is striving for Buddhahood)など仏を目指す者が善い行いを積み重ねながら歩む“成仏への道„、すなわち聖道(しょうどう the right paths)ととることができる。菩薩は自ら智慧の完成、すなわちさとりを求めるとともに、深い慈悲をもって一切衆生(生きとし生けるもの)をも利益(さとりに導く)しようとする存在。

※2、仏教の根本真理である三法印の二、諸行無常(The doctrine of impermanence for Sankhara, meaning formations)と諸法無我(The doctrine, absence of separate self for sarva-dharma, meaning things.)。諸行無常は因縁によって生まれたものは常に変化し留まることがないこと。諸法無我はあらゆるもの(因縁によるものもよらないものも)に永遠不変の実体は存在しないこと。

※3、聖道(※1参照)と見てもこの厳しい道は、菩薩ならぬ私、すなわち清らかな心を持ちえぬ私には一歩たりとも歩めない。

※4、仏教には自力聖道(難行)と他力浄土(易行)の二つの道があり、聖道は前掲のとおりだが、浄土の道とは阿弥陀如来のおすくいにあずかる道である。私自身の力である自力に対し、如来のお力なので他力という。我が力には自ずと限界があるが、如来のお力は測りえない。

「2025年度 しんらんズ ないと」のご報告

10月18日(土)夜のイベントは盛況の内に幕を閉じました

 当夜はお子さま9名、大人15名のご参加をいただきました。雨脚の強まるなかご参加いただいた皆さま、本当にありがとうございました。

 イベント中のお子たちの熱中ぶり、帰り際の皆さまの笑顔そして、「大人も楽しめました。また声かけて」との親御さんらのお声に意を強くし、早速来年度に向けて計画を練り始めているところです。
 それでは各イベントを分けてご報告いたします。

はじめに‐“勤行(読経)„‐

 まずは、各々自由にペットボトルキャンドルを選び、御堂に進みます。御堂内が色とりどりのキャンドルでいっぱいになり、読経が始まります。すると、皆さまの掌が自然と合わさります

つづいて ‐“献灯„&“焼香„‐

 読経の後、親鸞聖人御影(絵像)の前に設えた献灯台にそれぞれのキャンドルをお供えし、お焼香をします。

 皆さん仏前にうやうやしく首を垂れながらも、ワクワクした柔らかな表情で献灯・焼香をされておいででした。

仏教起源のあそび体験!

 ご紹介する予定のあそびは以下の7つでした。

①じゃんけん②盆おどり③あみだくじ➃とんち⑤縁日⑥坊主めくり⑦物見遊山

 これらの中で皆で体験したのは“とんち„と“アミダくじ„です。

 「とんち」は「頓智」と書き、即時の対応・ウィットに富んだ切り返しをいいます。一休さんのとんち話が有名ですね。ただ今回遊びにしたのは“とんちクイズ„、、、いわゆる“なぞなぞ„です。

「三角形に線を二本たして五角形にするには?」とか、
「お寿司やさんで頼むと値段しかいわれない。何のお寿司を頼んだのか?」とか、
「『大』『中』『 』『小』三つめの漢字は何?」などなど、、

 大人も子どもも一所懸命に考える人もいれば、問題途中からすでに「はは~ん」とばかりにピンときた表情で答えを回答用紙に書き始める人も。。。
 大人こども混合のチーム編成でしたので、ある時はお子さんが自信満々に答え、必要なら大人の方がアドバイスしたり、一緒に悩んだりと皆さん白熱しておいででした

アミダくじ」は古くは中心に向かって集束する放射状の線で表されていたようです。その模様がご本尊阿弥陀如来さまの後光をほうふつとさせるため、アミダくじと呼ばれるようになったのです。

 上の画像をご覧ください。これは参加された皆さんで完成させた巨大アミダくじです。約3m四方あり、48本の直線が中心から引かれています。

 このくじでは、中心に1位~4位に導かれるルートが1つずつあり、対応した賞品を獲得できるというルールでした。
 豪華賞品が当たった方、おめでとうございました!外れた方は次回は当たるといいですね。

 来年度のShinran’s Night もお楽しみに!

「2025年度 しんらんズ ないと」のご案内

10/18(土) 17:00 受付開始!!

「Shinran’s Night しんらんズないと」とは

 浄土真宗のご開山(宗祖)親鸞聖人のご命日(旧暦11/28)を前に、各お寺で執り行われる法要「報恩講(ほうおんこう)」。その夜の初めに勤められるのが「初夜勤行(しょやごんぎょう)」です。

 当寺におきましては2022年、このお初夜のお参りを「Shinran’s Night」と名を変え、より間口を広く、敷居を低く、どなたさまも楽しめるイベントを中心に構成しなおしました。より多くの皆さまにお寺を通じ、み教えや仏さまとのご縁が結ばれるように念じて。
 Shinran’s NIght は、今年で4年目となります。

幻想的なキャンドルの灯火

 秋も深まる10月第三土曜の夕べ。
 澄み渡っていた空があっという間に暮色に染まって行く。
 弱々しかったキャンドルの灯火は、黄昏を待ちかねるかのように存在感を強め。。。

 キャンドルを手にすると、暗闇を灯す火の明るさと温かさからか、皆さんのお顔は一様に和らぎ、自然と笑顔がこぼれます。

 キャンドルを手にお勤め(読経)し、親鸞聖人の御影(絵像)に献灯する、イベントの端緒を飾ります。

あそんで賞品ゲット!

 例年メインとなるイベント(遊び、ワークショップ)をご用意しております。今年度は「仏教起源のあそび」です。詳細は当日お越しになってのお楽しみですが、いくつかある内、少しだけご紹介しましょう。

じゃんけん

「さいしょはグー。じゃんけん、ぽい!」
 子どもが集まれば一度は聞こえる元気な掛け声。おなじみの公平に勝ち負けを決める遊びです。これが仏教となんの関係が。。。!?

あみだくじ

 あみだくじ。。「アミダ」くじ。
 ご本尊、阿弥陀如来さまの「阿弥陀」と同じ読みですが、「阿弥陀」にはどういった意味があるのでしょうか。そしてそれと「あみだくじ」とどうつながるのか!?

 以上、ほんの少しだけでしたがご紹介いたしました。まだまだ楽しい遊びをご用意しておりますので、大人のかたもお子さまもどなたさまも、どうぞ足をお運びください。

夏休みイベント「英語でクラフト」のご報告

8/23(土)『英語でクラフト』を開催しました

 この日は、氷見では夏休み最後の週末となるにもかかわらず、6組14名のご家族がお出でになりました。アメリカご出身のダニエルさんご講師のもと、下は年中さんから上はそのおばあちゃん世代の方まで楽しく英語を学びつつ、わらかご作りを楽しみました。

たのしく英語にふれる

 イベント冒頭にダニエルさんより「What kind of container do you know?(どんな種類の容器がある)」との問いかけを皮切りに、様々な容器をその用途(purpose)や素材(material)とともに紹介されました。ダニエルさんを囲み、小学生のお子さんたちを中心に英語と日本語が飛び交い、ワイワイガヤガヤと皆さん容器のあれこれに話がはずみました。


 ちなみにこのような容器が紹介されました。
・竹かご(a bamboo basket)(運搬用)<竹製>
・たらい(a tub)(運搬用)<プラスチック製>
・ガラス容器(a glass box)(保存用)<ガラス製>
・重箱(a wooden box)(食器)<木製>
・リュックサック(a cloth bag)(運搬用)<布製>
・ナイロン袋(a plastic bag)(運搬用)<プラスチック製>
・紙袋(a paper bag)(運搬用)<紙製>
・タッパー(a tupperware)(保存用)<プラスチック製>

作りごたえ満点!わらかご作り

 つづいて、ワークショップ「わらかご作り」です。わらかごは、お米ができる稲を脱穀したのちの茎と葉(葉鞘・葉身・稈)だけでできるかごで、稲の伝来より作り続けられている伝統的なわら細工の一つです。

 接着剤、粘着テープ、ビニール紐など現代の技術による便利な製品や機械は利用せず、旧来の手作業で、わらを差し、ねじり、編み込むだけで作ります。そのため一度聴くだけでは理解できないほど複雑な編み込み手順と緩まないための力が必要です。
 それでもお子さんは諦めず、パパママの力を借りながら、大人の皆さんは額に玉の汗を浮かべながらもそれぞれのかごを完成させました。それが一番上の写真で皆さんが手にするわらかごです。

じかに触れ自ら作り上げた喜び

 今回のイベントが始まる前、実はチラシを見た方から「わらかごなんて何に使うの」とイベント内容に対し、少し懐疑的なご意見をいただいてもおりました。
 しかしながら、当日かご作りをするお子さまの真剣な表情と工夫とチャレンジ精神、大人の皆さまの熱中ぶりと「何としても形にする」という意地を拝見するにつけ、成果物以上にその過程において想定以上に充実したイベントだったと思います。

 聴くだけの講義やテレビ・動画視聴では得られない濃い体験ができた夏休みのイベントでした。

 既に次のイベントに向け、ダニエルさんのHanabee英会話さんと話し合いを進めております。
 参加された方々は次回もお楽しみに。参加できなかった方は次回のご参加お待ちしております!

夏休みイベント「英語でクラフト」のご案内

8月23日(土) おとなも子どもも

令和7年度の大誓寺夏休みイベントのご案内です。

 対象は大人も小人(幼児のお子さまは保護者同伴)も、ご門徒さまもそうでない方も、氷見にお住まいでもそうでない方も。教わりながら楽しくワラかごを作ります。まずはチラシの宛先にてお申込みください。(申込み・問合せは大誓寺でも可)

会場は大誓寺本堂(空調あり)。定員20名。

参加費はお一人500円です。当日ダニエルさんにお支払いください。

かご作りを教えてくれるのはダニエルさん。氷見市在住のアメリカ人のかたです。

Hanabee英会話 ダニエルさん紹介

 アメリカのカリフォルニア出身。2019年に日本に移住し、2024年まで七尾市の小学校で英語教師を勤める。現在は英語塾「Hanabee英会話」を運営・講師を勤めるかたわら養蜂を営みハチミツを販売している。夢は子どもたちに科学と自然への興味を育む「学童を作り、ミツバチたちの蜜の楽園を設け」ること、とのことです。

寺子屋大誓寺の第二のかたち

 私たちのお寺では令和3年より「寺子屋大誓寺(※)」という活動に取り組んでいます。「より開かれたお寺」は、サービスを受ける側だけでなく、する側も流動するべきというのが当寺の考えです。
 これまで(令和7年現在)寺子屋の講師はお寺の住職などいわゆるお寺の人間が行ってきました(第一形態)が、今回の夏休みイベントで初めて寺外部のかたが講師役となります(第二形態)。将来的には授業内容の企画・運営にも携わっていただく(第三形態以降)ようになることが理想です。

 まずは今回のイベントチラシをご覧になり、お問い合わせ・お申込みください!

脚注)
※大誓寺が行う公益活動の一つ。お寺での学びと健やかな育成を通じて、よりどなたにも開かれたお寺を目指す非営利目的の活動。

令和7年度祠堂経のご報告

去る6/21(土)22(日)の両日、宇波の段證師をお迎えして祠堂経法要をおつとめしました。

段證(だんしょう)武邦師

 今年度ご招待の布教使さまは氷見市宇波の常尊寺住職の段證武邦師です。
 段證師は高岡教区教務所の定例法座やラジオ法話でご活躍のベテラン布教使であり、当寺でも度々ご依頼させていただいています。
 ちなみに当寺住職とは父同士が従兄弟という間柄です。

ご法話

 師には2座お話いただきました。初日前半は去年の能登半島大地震におけるご自身の体験について述べられました。

 段證師が住職をされているお寺「常尊寺」は氷見で最大級の被害に遇われた内の一寺院で、いまだに復旧のめど立たず倒壊の危険があり出入りすることが出来ません。鐘楼堂も危うく土台から倒壊するところだったようですが、すんでのところで総代さんがたのお陰もあり危機を免れたそうです。
 そんな中、はやくも地震直後の親鸞聖人御正忌報恩講からは庫裏を仮本堂としてお勤めを行っておいでということで頭が下がります。

 しかし、近隣のご住職が急逝したり住職継職したばかりの災害に遇ったりと、続く災難に師も悩み考えさせられたそうです。

 そんな人の生の苦悩のなかにこそ、はたらくのがお仏法です。

良寛和尚のおことば

 後半、その災害・災難を承け、師が「出遇っていて良かったな」と思えた良寛和尚のお言葉を引いて、こころの持ちようをお話くださいました。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

 上のお言葉は良寛和尚が子を亡くした友人に宛てた手紙の一節です。

 どんなに手を尽くしても災難に遇うときは遇う。死はもちろんのこと免れ得ない。といって、私(良寛)のように長生きすればそれだけこのような(子を亡くした親の悲しみを見ることのような)憂き目にあい続けねばならない。良いも悪いもない、あるがままと心得る、それこそ災難を逃れる良い方法だよ、と教えてくださる金言です。

 災害もますます増え、世界のあちこちで戦争・紛争が絶えず、恐ろしい事件・事故にいつ遇ってもおかしくない中、「聞いていて良かったな」と思えるお言葉です。(終わり)

令和7年度祠堂経のご案内

6/21(土),6/22(日)の二座お勤めします

日時のご案内

6/21(土) 14:00~(16:00終了)一座、法話二席
6/22(日) 9:00~(11:00終了) 同上

会場

大誓寺本堂(お好きな席にお座りください)

お布施(自由)

ご懇志をいただける方は本堂後方の受付までお越しください
(係のご門徒さまに対応いただいております)

行事内容

お勤め(読経):正信念仏偈 
※お経本は本堂前方に置いてあります

法話
布教使:宇波 常尊寺住職 段證武邦師

祠堂経とは

 祠堂経は、大誓寺におきましては毎年6月第三土日の恒例法要です。
 かつては祠堂志(※1)をお納めいただいた方のお披露目をしたり、お寺によっては過去1年で亡くなった方の物故者法要を兼ねて修行されているようですが、当寺では現在、ともにお仏法を聞くことができる慶びを再確認する場となっております。

 亡き方を想い、また同様に近しい方を亡くされた方々や、同じく仏とならせていただくお念仏の仲間(御同行)とともに笑い、涙し、掌を合わせましょう。
 どうぞどなたさまもご参拝くださいませ。(以上)

<注釈>
※1、永代にわたり祠や御堂を維持し礼拝の対象を護持し、後世へ伝えていくためのご懇志。かつては祠堂銭といったようです。

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