ただ、人は自身の罪深さや心の汚れを、自分ひとりで知り、直視することは不可能ではないでしょうか。ちょうど灯りと鏡なしでは自分自身のすがたを見られないように。 才市は聞法を重ねるうちに、「ねんぶつの、ほおから、わしのこころにあた」り、「阿弥陀佛そのものを体験した」ようです。難しい言葉でいうと、尽十方無礙光(※4)(Amida’s infinite light and unobstructed compassion)という如来の智慧の灯明と、浄土への喚び覚まし(called and reminded by Amida Buddha)という慈悲の鏡に出遇われたと言えるでしょう。
I am reminded of my unscrupulousness whenever I worship Amida with my hands together in gasshō.
真宗教団連合『法語カレンダー2022年9月』より
私は鬼だった!?
こちらの法語は「念仏とは自己を発見することである」を言い換えたものといえます。 「念仏」→「手を合わせ仏さまを拝む( I worship Amida with my hands together in gasshō)」 「自己を発見する」→「わたしのツノを知らされる(I am reminded of my unscrupulousness)」です。
「念仏」は浄土真宗において、阿弥陀如来のご本願に由来する「称名念仏(chanting the name of Amida Buddha, 南無阿弥陀仏と口にとなえる)」を指しますが、ここでの英訳では“合掌„という身の行い(身業)に焦点をあて「with my hands together in gasshō」と付されています。
去年のShinran’s Night 2022はご門徒さまに限らずご夫婦にお子さん、おじいちゃんおばあちゃんにお孫さん、中学生は友人同士で、兄弟姉妹でと、たくさんのご参加をいただきました。 ご本尊と親鸞聖人へのお参りに始まり、お楽しみ会に移るとご参拝の皆さま、特に子供たちの歓声が御堂中に響き渡り、まさによろこびの場となりました。