躑躅(ツツジ)が語るは

ヒラドツツジ

学名:Rhododendron ✕ pulchrum
和名:ヒラドツツジ(平戸躑躅)

分類:ツツジ目ツツジツツジ
分布:日本全国
花期:4月‐5月
長崎県平戸に由来するツツジの交雑種である。冬でも枝先の葉が残る半常緑低木。大輪で美しい花を咲かせる。樹高が100cm~300cmと比較的高く地際から密に生えるため、庭木のほか生け垣、街路樹にも利用され親しまれている。

立ち止まりたくなる美花

 4月頃から生命力いっぱいの若芽や花が至る所に見られるようになりましたが、5月に入り境内でにわかに目を惹くようになったのがツツジです。 

 ツツジはアジア各地に自生し、古来日本においても寺院や武家屋敷などに植えられ親しまれてきたようです。平戸の地は遣隋使派遣の時代からの海上交通の拠点でしたから、自然と海外や日本各地から多品種のツツジが持ち込まれ交雑交配が進み、ヒラドツツジは現在のような密に枝葉が茂り、大輪の美しい花を咲かせる品種となりました。

 その美花ぶりは名前にも表れています。
 属名 “Rhododendron” の “rhodon” は古代ギリシア語で「バラ」、”dendron” は同様に「樹木」の意。種小名 “pulchrum” はラテン語で「美しい」を意味します。

 さらに漢名で書くと “躑躅” ですが、”躑(てき)” も”躅(ちょく)” もどちらも「行き悩む」「行きつ戻りつする」の意味があります。諸説あるものの、花が美しく目を惹くため、足を止める人が多かったことに由来するようです。別の用事に早めていた足がふとその美しさに立ち止まり、戻りさえする、、、ツツジが全国各地にひろまったことにも深く頷けます。

美意識は土壌、執着はタネ

 上記の「躑」「躅」の意味で「行き悩む」とあります。なるほど、美を見出すことは喜びでもあり悩みでもあるのですね。美に限らず価値ありとするほど、そして、より儚いものほど見る人の悩ましさは強くなるのではないでしょうか。
 たとえば、各季節、ツツジの花、サクラの花、夏の蝉(セミ)、カゲロウ(成虫としての一生)、シャボン玉、そしてヒトの一生。。。

 お釈迦さまならば「執われてはいけない」と仰せになるでしょう。

 悩み(苦果)を産み出す土壌(美意識)は持っていても、執着というタネ(苦因)をまいてはいけない、その事を満開のヒラドツツジを通して語りかけてくださいます。

花びらは散っても花は散らない

 では美しい花を愛でるな、と仰せなのでしょうか。

 そうではありません

 浄土真宗の僧侶であった金子大榮師の法語に、
花びらは散っても花は散らない 形は滅びても人は死なぬ
というものがあります。
 私が美しさを感じているツツジは主に花びら満開のツツジです。しかし花びらを付ける前には蕾(つぼみ)があり、花びらが散った後は次の花芽や果実ができ、緑豊かな葉が生い茂るのです。花びらは散ってもなお生き、花のいのちは繋がれていく。

 花咲く時期も、新緑の時期も、結実の時期も、そして落葉の時期も、一瞬一瞬がすばらしい。それは人のいのちも、きっと。

英語で聞法「地獄」5/7(後)

 前回(「地獄」5/7 前編)では「執着(adhere to, seize)」の仏教的な概念に触れた上で、ご法語の意味するところは、人の浅ましいほどの自己中心性(selfishness)だというところまで申し上げました。

It is the self among all things that we most adhere to.
真宗教団連合『法語カレンダー2020年6月』より

源信 著『往生要集』

 平安中期の天台僧、源信和尚(恵心僧都942-1017)に主著『往生要集(The Essentials of Rebirth in the Pure Land)』がありますが、このお書物によって近代日本人の浄土観・地獄観(Modern Japanese view of Pure Land and Naraka)が形作られたと言えます。例えば「地獄(Naraka)」「極楽(Pure Land of Amida Buddha)」「お迎え(※1)」「阿鼻叫喚(※2)」「ちくしょう(Animal)」「ガキ(Preta)」これらの言葉も現在では広く社会に浸透しています。
 本書の概要はまず、人が輪廻し趣く苦しみの世界(Six Path in the Cycle of Rebirth)である地獄・餓鬼・畜生・修羅(World of Asura the antideva)・人・天(World of Deva the celestial beings)の六道を紹介し“厭離穢土”(濁りきった世を厭い離れること Loathing the Defiled Realm)を唱え、次に“欣求浄土”(阿弥陀仏の世界である極楽浄土への往生を願い求めること Seeking the Pure Land)を十種の楽(喜び Ten Bliss)とともに訴えたうえで、末世の往生のために念仏を勧める(Instructing all being to practice Nembutsu for salvation within the time of declining dharma)という流れです。

 源信和尚は“地獄は我々自身のすがた”と観た天台地獄観(※3)をうけてこの書を著されました。地獄と同様に畜生を含め他の五悪趣にも厭うべき現世の人のすがたを見られたとしても何ら不思議はありません。

畜生(畜生趣、畜生道)

 では畜生(Animals)とはどの様な存在なのでしょうか。前掲の『往生要集』より抜粋すると、、

 第三に、畜生道を明さば(中略)三十四億の種類あれども、惣じて論ずれば三を出でず。一には禽類、二には獣類、三には虫類なり。

 畜生とは要は自然界にいくらでも見かける動物、鳥、虫たちのことのようです。もう少し見てみますと、、

 かくの如き等の類、強弱相害す。もしは飲み、もしは食ひ、いまだ曾て暫くも安らかならず。昼夜の中に常に怖懼を懐けり。

 これら畜生のすることといえば、互いに害し合うか、飲むか食うだけであり、不安と恐怖を抱かぬ時はひと時もない、とお示しになります。

振り返るわが身は

 前回ご法語について述べました、「何よりも執着せんとするものは自己」の「何よりも」は他者も含めてのことと理解されると。どこまでも自己にのみ執着せんとする者は、他者を押し退け、休むことなく自分に都合の良いものを貪るものと言えはしないでしょうか。まさに仏教の戒める自己中心性です。

 ここでわが身を振り返ると、家族と過ごすとき、街を歩くとき、車に乗っているとき、買い物をするとき、人前に出るとき、会話するとき。予定を立てるとき。。枚挙に暇なく、生きてきた過去すべて、いずれもそこに自己がない場合はありません。「他人のため」「社会のため」というときでさえ、“認められたい”と欲する私が中心にいます。
 振り返るわが身は、他のいのちを押し退け貪るばかりの畜生そのもの(It is shown myself that I’ve been Animal only devouring all other lives)でもあったようです。

(「地獄」6/7につづく)

(脚注)
※1、聖衆来迎(しょうじゅらいこう Welcoming approach)。往生浄土を願う人の臨終に、阿弥陀仏が菩薩、聖衆を率いて迎えに来ること。但し、他力念仏(阿弥陀仏を頼り念仏申す)の人は阿弥陀仏の摂取(一旦すくい取ったなら決して捨てない)の利益によって、信心(阿弥陀仏を頼りとする心)をいただいて後より往生に至るまで常に仏・菩薩の来迎にあずかり護られるとされる。

※2、八大地獄のうち、第八の阿鼻地獄(Avici)と第四の叫喚地獄(Outcry Naraka)のこと。獄卒による不断の尋常でない責め苦により、地獄に堕ちた者の口から絶え間なく発せられる絶叫のような苦痛の叫びを表す。

※3、参考文献『往生要集を読む』中村 元 

英語で聞法「地獄」5/7(前)

 前回(「地獄」4/7(後))もう一つの地獄(Another Path in pain)のかたちとして、感謝を一切覚えずどこまでも不足不満(Neither thankful nor satisfied)を訴える貪欲(greed)から生まれた “餓鬼(Preta)„についてお話しました。
 今回、まずは下のご法語をご覧ください。

It is the self among all things that we most adhere to.
真宗教団連合『法語カレンダー2020年6月』より

 「地獄」3/7では、黒縄地獄に堕ちる原因は人の執着する心(the intention to seize(※1) things)にあるとご紹介しました。そして何より執着するのが自分自身に対して(the self that we most adhere to(※1))であると、このご法語でお示しです。

執着(しゅうじゃく)

 仏教では“しゅうじゃく”と読み、一般的にいう “執着(しゅうちゃく)”とほとんど同義で、ものに強くとらわれることをいいます。執着は仏・菩薩ならぬ者が縁起の法(※2)に昏く(※3)、無我(※4)をさとらないために為す行いであり、執着には常に失う不安や失った悲しみ・憎悪といった苦しみが伴います。
 そのため仏教では執着することを止め、欲心を手放すことを勧めます。「少欲知足(よくすくなくしてたるをしる)」というように、既に与えられたもの、そして出遭う全てが有難く、貴重で尊いのだと知ることの大切さを教えて下さる(前回参照)のです。

互いに害し合う浅ましきは

 「何よりも執着せんとするものが自己」。。他者も含めて何よりもということでしょう。であれば、人が自己中心的(selfish)であることを換言したものです。各々の自己中心性ゆえに互いに他者に譲ることをせず、占有できないとなれば腹を立て争い、命さえ奪い合う。。

 平安時代中期の高僧、源信和尚はその著書『往生要集』において、こうした浅ましい存在として「畜生(Animals )(※5)」を挙げておいでです。。。が、次回に詳しく述べたいと思います。

 次回後編は地獄・餓鬼とともに代表的な苦しみの世界、三悪趣の一つ「畜生趣(the world of animals)」を紹介します。

「地獄」5/7(後)につづく)

(脚注)
※1、adhere to とともに“執着”の英訳。seizeは「取り上げる」「占有する」の意であり、adhere to は「接着する」「(ルールなど)則って離れない」の意。“執着”が対象物を占有したいという我が欲心の現われであり、狙い定めて離れぬ粘着性も有することを鑑みるとどちらの訳も妥当である。

※2、因果の道理(the doctrine of Nidana)のこと。釈尊がお悟りになったこの世の真理。一切の物・現象は直接原因である「因」と間接原因である「縁」によって成り立っており、因縁が生滅・変化すればその結果である物・現象もまた生滅・変化する

※3、真理に昏いことを愚痴または無明、おろかさという。サンスクリット・パーリ語でMoha。代表的な煩悩である貪欲・瞋恚とともに三毒と呼ばれる。根本的な煩悩である。

※4、①すべてのものには実体がないこと。仏教の根本真理“三法印”の一。The doctrine of no-self. Nothing exists with no changing or parmanent self②自我に対する執着(我執)が無いこと

※5、サンスクリットでtiryanc(ティルヤンチュ)。詳細は次回述べる

落ちても離れぬいのちの因果

椿(ツバキ)

学名:Camellia japonica
和名:ツバキ(椿)、ヤブツバキ(藪椿)

漢名:紅山茶(こうさんちゃ)
分類:ツツジ目ツバキ科ツバキ属
原産国:日本
分布:日本(北海道南西部以南)および中国ほか
花期:2月‐4月
濃緑の葉につやがある日本を代表する常緑樹。冬に日陰でも美しい花を咲かせるため観賞用として古来より人気である。
なお、漢名に紅山茶とあるが、飲料としてのお茶の採れるチャノキ(茶樹)は種は異なる同属の仲間である。

寒中のはな

 立春の候、、ではありますが、まだまだ寒いこの時期にひと際健気に咲く花といえばツバキではないでしょうか。寒中見舞いのイラストにもよく使用されていますね。上の画像は北陸など多雪地帯に自生するユキツバキでなく、ヤブツバキの園芸品種(ピンクの千重咲き)です。知人から頂いた芽が3,4年程かけて若木へと生長しました。

仏教寺院とツバキ

 ツバキは日本原産のため、当然ながら経典や仏教説話には見られませんが、寒中にも葉は深緑のつやを保つため、その神聖さから古来日本の寺院や神社に植栽されてきた歴史があります。貴人や武家といった時の権力者らも愛し、それが庶民に広まり多くの選抜品種が交配によって生まれてきました。ここ北陸に自生する変異に富むユキツバキも大いに人気を集めたようです。

落椿の理由(椿の生存戦略)

 落椿(おちつばき)は春の季語で、ツバキの花が散るというより丸ごとぽとりと落ちる様子や落ちた花をいいます。この様が打ち首や落馬を連想させるため武家社会で忌避されて来、現在でも競馬界、病人の見舞いなどの場でタブーとされています。しかしそこにはツバキの生存戦略が隠されていたのでした。

いのちをつなぐため

 ツバキが敢えて冬に咲くのはこの花が鳥媒花(※)であり、食料の希少な寒い時季にメジロやヒヨドリなど蜜を好む鳥を呼び寄せて受粉するためです。

 落椿はツバキの花弁が基部で繋がっているために、花弁が散らずに丸ごと落ちる現象です。もし花弁がゆるく、メジロなどに雄しべを避けるため横からくちばしで花蜜を吸われてしまったら、、、雄しべの花粉がメジロに付着することもありません。つまり、いのちを繋ぐ可能性を低めてしまいます。生存を高めるという進化の結果が落椿という現象なのでした。
 そこには不吉なものなど微塵もない、むしろ鳥と共に次のいのちを繋げるという尊いすがたがあります。

 生命活動が停止したかのような雪国の野山にも、いのちを繋ぐ因果だけはいつも存在しています。

※、鳥類を利用して花粉をはこび、受粉する花。花蜜の量が多く、花托の構造が大きい。花色が赤い品種が8割を占める。

英語で聞法「地獄」4/7(後)

We live taking what we have been given for granted but continue to express dissatisfaction.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年6月』より

 前回(「地獄」4/7(前))、大変貴重ないただき物ですら「ありがとう」とは思わない(taking what we have been given for granted)、どこまでも不足不満をいう(continue to express dissatisfaction)非常識な者が生み出すのは、醜悪な亡者・餓鬼である、というところまでお話しました。

 今回はその貪欲(むさぼり、greed)から生まれた鬼、 “餓鬼(ガキ、Preta)„について、例を挙げてお話します。

食火炭餓鬼(じきかたんがき、Preta eating cremains still burning)

 餓鬼は常に飢渇に苦しむ亡者の呼び名であるとともに、強欲のこころを起こした者が趣く苦しみの世界(悪趣・悪道、one of the suffering world in the cycle of karmic reincarnation for one’s greed)でもあります。しかしながら餓鬼は餓鬼道にのみ存在するのではなく人天(人間界Humans・天界Devaloka)にも存在するといいます(※1)。なぜなら餓鬼は、飢えて食物を待つ死者と、欲求不満な人間のすがたを表現(expresses human who is never satisfied with some restrictions)しているからです。

 下の絵をご覧ください。

『餓鬼草子(河本家本)』
 食火炭餓鬼 -模写-

  こちらは餓鬼の一種である食火炭(じきかたん)餓鬼(※2)です。まず火の玉状の物を飲もうとしていることに驚きますが、よく見てみるとそのすがたは骨と皮ばかりでやせ細り、髪は乱れその身は黒ずみ、腹部は山のように大きく膨んでいます。
 そして何より注目すべきはその表情です。燃える何とも知れない物を嫌がる様子もなく無表情に(without expression, no joy, no thankfulness)、しかし“いくらでも食べたい„という貪欲さが窺えます。

 どうでしょう。喜びも感謝もなさげで、「まだないの?」と言わんばかりのこの表情。まさに「あたりまえだと言うて、まだ不足を言うて生きている」人間、、、ということはつまり餓鬼とは貪欲な私そのもの(Preta means myself with greed )だったようです(前回参照)。

ほとけさまが教えてくださること(続き)

 前回の末項目で「ほとけさまが教えてくださること」として「一切において当たり前に存在するものはない(※3)」とご紹介させていただきました。
 空気や水、家や親の存在、毎日の食事、そしてこのいのち。。。当たり前に存在していると思っていたものが実はそうではない。この真実に頷かせていただいたならば、出遇うすべてが有難く、貴重で尊く、うれしい(Everything I see mekes me thankful, respectful and happy on Buddhism)のです。
 一方でそのことを忘れ、日常や与えられた環境、そしてこのいのちすら味気なく「もっと美味いもんないの」と無表情に口を開けて待っている私の餓鬼としてのすがたが、恥ずかしくもあり、もったいなくも感ぜられる(Myself as Preta makes me ashamed and regrettable for wasting so many lives in the cycle of reincarnation)のです。

(「地獄」4/7おわり)

 

(「地獄」5/7へつづく)

※1、源信『往生要集』より、「第二に、餓鬼道を明さば住処に二あり。一は地の下五百由旬にあり。閻魔王界なり。二は人・天の間にあり」。

※2、河本家本は『正法念処経』に依拠しているとされるが、経によれば食火炭餓鬼が食しているのは遺体を火葬する際の燃えた炭である。

※3、詳細は前回脚注参照のこと。

英語で聞法「地獄」4/7(前)

 前回(「地獄」3/7)、地獄のひとつである“黒縄地獄(Marking String Naraka)„という例を挙げて、地獄の苦痛の原因を掘り下げました。今回は(前)(後)編に分けて、別の苦しみの世界について見ていきたいと思います。

非常識なひと

 まずは本日のご法語を英訳とともにご覧ください。

We live taking what we have been given for granted but continue to express dissatisfaction.

真宗教団連合『法語カレンダー2022年6月』より

「“あたりまえだ„と言うて」の英訳は「taking what we have been given for granted」ですが、何が「あたりまえ」なのかといえば、「what we have been given(もらったもの)」です。
 どうでしょうか。もし贈り物をした相手が「当たり前だ」などと言ってそれを自分のものにしたら。しかも「もうないの?これだけ?」と不満を漏らす。。「とんでもない人もいるもんだ」「こうは成りたくないね。非常識にもほどがある」とお思いになるのではないでしょうか。

“ありがとう„と“あたりまえ„

 皆さまは例えば、空気や水、家や親の存在、毎日の食事、そしていのち。。これらに最初から“ありがとう„という感謝の思いを持って過ごして来られたでしょうか。それこそ生まれた時から “あたりまえ„ にあったと仰る方が多いのではないでしょうか。

 筆者もそうでした。親には感謝を口にするどころか「口うるさいな」「なんでこんな家なんだろ」と文句ばかり。食事に際しては「いただきます」と口では言いながら、平然と「なんかもっと美味いもんない?」と不満ばかりでした。

「ありがとう」と思わないというのは「“あたりまえだ„と言うて」いるのと同じこと( my unthankfulness for something means taking it for granted)です。“ありがとう„は“有難い„つまり、“有って当たり前„とは真反対の意味だからです。

ほとけさまが教えて下さること

 幸いなことに私は、ほとけのみ教えをお聞きすることを通して、一切において当たり前に存在するものはない(※)(Nothing exists with no changing or permanent self)とお教え頂きました。食事ひとつとっても、それは多くのいのちと、多くの方々のお陰様の上に成り立っていること。すべての出遇いは本当にたまたま偶然が重なりあって、出遇いがたくして出遇ったこと。この私といういのちを頂いたこと、お育て頂いたことが、何とたくさんのご縁によるものかを。

 それでもふとした拍子に「もっと欲しい。もっと良いもんを」「なんで自分ばっかり」と、「まだ不足を言うが出て参ります。それこそが次にご紹介する私の貪欲さが生みだす醜悪な亡者、“餓鬼(ガキ、Preta)„であり、終わらぬ飢えに苦しむ私が趣くもう一つの世界(Another Path in pain in the cycle of karmic reincarnation)、餓鬼道です。

 (「地獄」4/7(後)へつづく)

<脚注>
※ 仏教の根本真理である三法印(さんぼういん)の一二、諸行無常・諸法無我。諸行無常は、因縁によって作られたもの(有為法)は常に変化してとどまることがないこと。諸法無我は、すべてのもの(有為法・無為法)は永遠不変の実体(我)ではないこと。The doctrine of impermanence and no-self.

「2024年度 しんらんズ ないと」 報告

 10/19(土)17:30より、「しんらんズ ないと」 を開催しました。

 今年度の「しんらんズないと」は雨天にもかかわらず、多くの皆さまにご参加いただきました。ありがとうございました。
 初めてお参りくださったパパさんの姿も見え、世代・性差・家や地域を超えて皆が楽しまれる様子に、仏縁に支えられた温かく力強い未来を見たような気がいたします。

 今回のメインイベントは、、
ワークショップ ろうそくを作ろう!」でした。

 作業は、溶けた蝋にクレヨンの粉やアロマオイルを混ぜて、好みの色と香りのロウソクを作るというもの。

 クレヨン粉が多すぎたのか「ロウソクが固まらないっ!」というハプニングも一部あったものの最終的には皆さんオリジナルのロウソクを作りあげ、仏さまと親鸞さまへのお供えの灯火を点じ、皆で掌を合わせました。

 最後はビンゴゲーム。恒例になりつつありますが、やはりある意味一番盛り上がるイベントです。今回は一列をそろえるにもなかなか手数がかかったようで、焦れったそうにしながらも皆さん笑顔で楽しんでおられました。

 ちなみに今回の景品は以下のとおりでした。
1、カメラ
2、化石発掘セット
3、スターバックスコーヒーセット
4、駄菓子1,000円相当分
5、ボトル入浴剤


 豪華景品の当たった方はおめでとうございました。外した皆さまも次回きっと機会がまわってきますので、ぜひまたのご参加をおまちしております。

 この毎年の大誓寺報恩講「しんらんズないと (Shinran’s Night 親鸞聖人のゆうべ)」を通して、地域の元気・安心につながりましたら、これほど幸いなことはございません。
 これからも如来大悲のもと、ひとの幸せ・安心を考え活動してまいります。

「2024年度 しんらんズ ないと」のご案内

10/19(土) 17:30 みんなあつまれ!!

 今年度も去年に引き続き、当寺報恩講初夜勤行(おしょや)は、しんらんズ ないと(※)として開催いたします!

 去年、Shinran’s Night 2023では、闇を照らす幻想的なキャンドル、みな苦労して折ったハスの立体折り紙アート、まず一般の方は着ない法衣の試着体験、そして豪華賞品があたるくじ引きまで盛りだくさんの内容でお楽しみいただきました。

 お子さん連れの親御さん、お孫さん連れのじいじにばあば、ご近所の子供たちは友達同士でと、今年初めての方も含め30名以上のご参加をいただきました。

 今年度のおしょやもお楽しみ満載です。

 恒例の秋の夜を美しく彩るキャンドル、ろうそく作りワークショップでは、なんとご自身でろうそく作りが体験できちゃいます。この世に二つとないオリジナリティ溢れるろうそくを作りましょう。そしてやはり盛り上がるのはビンゴゲーム!豪華な景品をご用意しております。

 参加は無料!どなたさまも参加、お待ちしております。

(※)しんらんズ ないと(Shinran’s Night) とは

 世に生きるすべてのいのちをすくうとの阿弥陀如来の仰せ、本願念仏。そのナモアミダブツのお念仏との出遇いをよろこばれ、今に伝えてくださった親鸞聖人。しんらんズ ないと(Shinran’s Night)とは親鸞聖人とともに仏縁をよろこび、そのご苦労に想いをはせる夕べの集いです。

英語で聞法「地獄」3/7

 前回「地獄」2/7では地獄はどこに?をテーマにお話ししました。
 今回はこの世における地獄(Naraka manifesting itself as a result of one’s bad deeds in the mundane world)のひとつのすがたをご紹介します。

Material wealth does not tie me down. Rather, it is the intention to seize material wealth that does.

真宗教団連合『法語カレンダー2015年6月』より

黒縄地獄(Marking String Naraka)

 浄土真宗七高僧のお一人、源信和尚(942-1017)の著作『往生要集』によれば、八大地獄のなかに「黒縄(こくじょう)地獄」というものが存在します。

図:黒縄地獄
図上部の獄卒らは罪人に黒縄でもって線を引こうとしている。下部では引かれた線に沿って罪人を切り分けている。

 「黒縄」とは墨縄(marking string)のことで、大工さんが材木に直線を引くための道具です。黒縄地獄において、まず罪人(a tormented sinner)は地獄の獄卒である鬼(Oni, an ogre the warden of Naraka)に熱鉄の地に伏せられ、熱鉄の黒縄でもって身体の縦横に線を引かれる。そして刀、斧あるいはのこぎりでもって縄目に従って切り割き分けられる。切り分けられた罪人らの肉体は段をなしてそこここに散り置かれる。。。なんとも気分の悪くなる光景です。

黒縄の正体

 地獄の鬼がその怪力でもってこの身をねじ伏せ、打ち付けてくる苦痛極まりない熱鉄の黒縄。一体なぜこんなにも熱いのか、なぜこんなにも苦痛なのか、そしてなぜ黒いのか
 親鸞聖人の著『教行信証』に涅槃経を引用されて仰せのことには、

「黒業あることなければ、黒業の報なし。白業あることなければ、白業の報なし。」

 黒は悪、不浄を表します。したがって黒業とは悪業(悪い行い。bad deeds)のこと。悪業がなかったなら苦しみという悪果を引き起こすこともない、という意味でしょう。ちなみに白はその逆です。
 つまり、黒縄が黒いのは己の引き起こした悪行ゆえだったのです。その我が行いが苦痛の縄となり自らに向けられるのです。

自縄自縛

 ここで今一度冒頭のご法語をご覧ください。

 「もの」の英訳を見てみると「material wealth」とあります。つまり物質的な富です。言い換えれば財産です。しかし、問題は物や金銭だけではありません。人も、為すことも含め、私の欲しがる対象のすべてです。
 それら「もの」が私を縛るのではない、とご法語で示されます。

 そうです、私を縛る黒縄は「もの」を欲しがり執着する我が心であったのでした。喜びを得るはずが、欲すれば欲するほど苦痛を増す。何という皮肉でしょうか。

「地獄」4/7(前)につづく)

英語で聞法「地獄」2/7

 前回「地獄」1/7(後)では妙好人 浅原才市氏の詩をとおして、我が鬼たる本性(my unscrupulousness)を目の当たりにするというお話をしました。
 今回より本シリーズの主題「地獄(Hell. Naraka)」に入ってまいります。

I have hell within my heart, and all day every day, the flames burn fiercely there.

真宗教団連合『法語カレンダー2023年3月』より

地獄はどこに!?

 地獄(Hell or Purgatory)とは“地下に在る牢獄(Jail underground)„の意味です(梵語「Naraka」の意訳。音訳では「奈落」)。現世で悪業(Karma, one’s accumulated actions)をなした者が死後その報いを受ける(being reborn to suffer for one’s karma to achieve its full result)苦しみ極まる世界。。。とされています。しかしながら、このご法語の作者 浅原才市氏は我が「こころにじごくがあるよ(I have hell within my heart)」と述べておられます。本当はどこに地獄があるのでしょうか。

 後半の句を見てみると、心に「ほのおがもえる(the flames burn fiercely there)」と補足して表現されています。「地獄がある」ことを「ほのおがもえる」ことと言い換えていると見ることができます。
 炎は仏教においては煩悩のひとつである瞋恚(怒り)の象徴とされることもありますが、才市氏は怒りだけにとどまらず、貪欲さも慢心も含め様々な煩悩を地獄の「ほのおがもえる」と表したようです。

地獄は悪果

 地獄の観念は仏教成立以前から存在しましたが、仏教において応報思想と輪廻思想が結びついて説かれるに至りました。釈尊が説かれた真理 “縁起„は応報思想を受容し発展させたものです。応報思想とは、“善い行いは善い結果を生み(善因善果)、悪い行いは悪い結果を生む(悪因悪果)„という思想です。悪因悪果を生まれ変わった後の世まで延長させると、苦しみを受ける世界、すなわち地獄という世界が展開されます。
 しかし悪果として苦しみを地獄とするなら、現世にありながら地獄を受けることはあり得ます。

 したがって、狭義の地獄は死後の苦しみの世界を指し、広義の地獄ではいま現に受ける苦しみ(あるいは悪因である煩悩)を含むと言えます。

「地獄」3/7につづく

※ 参照『往生要集を読む』中村元、『浄土真宗辞典』浄土真宗本願寺派総合研究所

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